カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2017年5月30日 (火)

私の編集者としてのスタートは 手塚治虫先生担当

 私が、小学館に入社したのは、1971315日。新入社員教習、書店での実習期間が終わり、配属先が決まったのは同年521日のことでした。女性誌で家庭実用欄の編集に携わりたいという希望を持っておりましたが、配属されたのは『ビッグコミック』編集部。まだビッグコミック兄弟誌の『オリジナル』も『スピリッツ』も『スペリオール』も誕生前で、月刊から月2回刊になったばかりの『ビッグコミック』本誌だけでした。

 最初に担当させていただいたのが、手塚治虫先生。『ビッグコミック』では『きりひと讃歌』の連載中で、先輩のSさんから担当を引き継がせていただきました。それから約2年間、いわゆる「手塚担当」をさせていただいたのですが、今思えば、右も左も判らぬ新入社員のかけだし編集者にとってこの上なく名誉な経験でした。


 正直に告白しますと、子どもの頃に確かに『鉄腕アトム』も読んでいましたが、どちらかというと横山光輝先生の『鉄人28号』の方に夢中だった私です。手塚先生が偉大なまんが家であることは、私が編集者のスタートを切った頃にはすでに衆目の一致するところでしたが、コミック誌の編集者になるとは思っていなかった私は、手塚作品の熱心な読者というわけではありませんでした。むしろ、当時押しも押されもしない人気作家でもあった手塚先生は、ベテラン編集者にとってもスケジュール通りに原稿を受け取ることが難しい作家の筆頭だということで、できれば担当したくない作家だったのです。


 ですから、先輩や同僚からも「新入社員で手塚担当か……大変だね」と、同情されたり脅されたりだったのです。しかし、担当させていただいて数か月、私は先生の作品というより、手塚治虫という人物の魅力の虜になっていきました。『きりひと讃歌』の最後の10話と、その次の新連載作品の準備から連載スタート、そして物語が佳境に入るころまでを担当させていただいた間に、私は子どもの頃から抱いていた手塚治虫という人のイメージがガラリと変わる経験をさせてもらいました。

 

 新連載スタート時に担当した作品は『奇子(あやこ)』という、私の知っている手塚作品のどの系譜にも属さない、社会派劇画とでもいうべき、『ビッグコミック』読者層の大人に向けたかなりシリアスな作品になりました。『きりひと讃歌』も、「子どもまんがの神様」とか「日本のディズニー」というような手塚作品のイメージとはかなりかけ離れた作品でしたが、『奇子』は、それ以上に以前の作品とはまるで異なる匂いを持っていました。終戦直後の日本の世相、下山事件を想起させる歴史の暗部にも鋭く迫りながら、かなり性的な表現もあれば殺人もあるという「文部省推薦」とはほど遠い異色の作品です。子ども向けの、あるいは万人向けの手塚作品しか知らない人は、ぜひ『きりひと讃歌』や『奇子』を読んでみてください。あなたの手塚作品に対するイメージが崩壊すること請け合いです。

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 手塚治虫という作家の偉大さはそこにあります。とにかく守備範囲が広いというか、まんが・コミックという表現手段で可能な世界の、全てを描き尽くしたいという桁外れの貪欲さを持っていた方でした。また、後輩の若い作家のデビュー作までが気になってしかたないという、大作家らしからぬ嫉妬心の持ち主でもありました。私は、「この人の作品を生み出す原動力は、嫉妬心か?」と思ったりもしました。

 かけだし編集者の私にまで、「岩本さん、◯◯誌でデビューした◯◯さんの作品を読んでますか? どうしてあの◯◯さんはあんなに人気があるのですか! どこが面白いと思いますか」と、真剣な眼差しで私に尋ねられるのです。そして、次々に新しい表現手法を試し、新人作家がユニークな視点で描くジャンルにも挑み続けてそれを凌駕するという姿勢を最後まで貫かれたと思います。トップを走り続けること、それが手塚治虫という作家の使命であるかのように…… そして、1989年、60歳の若さでこの世を去られた手塚先生。 私は、手塚先生の享年を十年も超えて生きています。先生の偉大な業績に比べて、なんと無駄に長生きしていることか……

【余話1】
 実は、私が連載開始を担当させていただいた作品『奇子』は、現在、角川文庫で読むことができることを最近知りました。なぜ、小学館のコミックスのラインナップに入ってなくて、どういう経緯でKADOKAWAの文庫に収録されることになったのかは知りません。しかし、自分が担当させていただいた作品が、50年近く経って、もう一度読むことができるのは嬉しいことです。(電子版は、E-Book Initiative japan

【余話2】

『奇子』は、スタート時に手塚先生と編集長の間で、作品のタイトルを巡ってかなり激しいやりとりがあり、間に入った私はオロオロするばかりでした。とうとう最後は、皇居外周の道路をぐるぐると何周も回るハイヤーの後部座席で、手塚先生とK編集長の直接対決にもつれこみ、前部助手席に乗ってはらはらしながらそのやりとりを聞いていた担当の私……今回、改めて角川文庫版で『奇子』を読みながら、あの時の緊張感がよみがえりました。当時、手塚先生はまだ44歳だったことに、今更ながら驚きを禁じ得ません。どう思い返しても、堂々たる大作家のオーラに溢れていらしたからです。

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2017年3月28日 (火)

「平成の伊能忠敬」同行記

鈴木康吉さんと歩いた28km
 かつて測量のため伊能忠敬の歩いた日本の沿岸を、リヤカーを押して歩いている人がいる……と、伊能忠敬研究会の先輩から教えられて知ったのは、昨年の秋のことでした。その「平成の伊能忠敬」さんは、第二次行脚の帰路で、私の住む伊勢亀山市の公園で野宿をして、私がそのことを知った前日にはすでに四日市まで到達していたため、昨年はその姿を拝見するチャンスを逃してしまいました。その直後、Facebookに旅の記録を時々投稿されていることを知り、メッセージを送らせていただきました。
 今月になって、「平成の伊能忠敬」と呼ばれる愛知県大府市在住の鈴木康吉さん(74歳)は、私をFacebookの友人として認めて下さり、鈴木さんの投稿で、第三次の旅に出ることを知ったのはほんの数日前のことでした。
 3月25日にご自宅のある大府市を出発し、26日に四日市入り。27日に四日市を出発して亀山を通過する予定だと知り、「それなら、27日の朝、四日市の宿泊先のホテルまで参ります。お邪魔でなければ一緒に歩かせてください」とお願いしたのは2日前のことでした。26日夕、鈴木さんから私のiPhoneに連絡が入り、「雨の中、真面目に歩いたので午後3時にはホテルに着いちゃったよ」とのこと。
 27日早朝、私は亀山駅から電車で四日市の鈴木さんの宿泊先のホテルへ向かいました。7時半ごろにホテルでというお約束だったのですが、6時半ごろにJR四日市駅に着いたので、お目に掛かる前に、同行ウォーキングの足慣らしに、1時間、約6km四日市市街を歩き回ってホテルに到着したのが午前7時半。
 ロビーで待っていると、ほどなく、すでに駐車場に置いたリヤカーの点検を済ませた鈴木さんが登場。Facebookでお互いの顔を知っておりましたが、もし気むずかしい方だったら……とちょっと緊張しておりましたが、その心配は全くの杞憂でした。いきなり旧知の友人のごとく接して下さり、私も生来の図々しさですぐに打ち解けることができました。
 簡単な本日の予定をお聞きしたあと、「もしよろしければ、亀山まで同行させてください。その場合は、旧東海道をご案内しながら行くのはいかがでしょう」との提案に、鈴木さんは「それがいいねぇ」と同意してくださり、基本的に旧東海道を亀山まで歩くことになりました。私が部分的には何度も歩いている旧東海道ルートを繋げればいいので、私の頭の中には旧東海道の地図がインプットされています。
 鈴木さんが下調べをしていた関宿(亀山市)までの最短ルートをタブレット端末で見せてもらいましたが、ほぼ国道1号線を歩くルートで、約25km。それに比べると、旧東海道を歩くと5km以上余計に歩くことになります。特に四日市市内の旧東海道がどの道なのかをご存じなかった鈴木さんを案内して、ホテルを出発したのは午前7時50分ごろでした。

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↑ホテル出発直後。

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↑四日市市日永付近の旧東海道。

 一緒に歩きながら、鈴木さんと私はほとんど途切れなく話続けます。底抜けに明るい鈴木さんは、しゃべり続けても歩調を乱すことなく、予想以上に速いペースでリアカーを押していきます。私は、並んで歩いたり、時として道路の反対側に渡ったり、駆け足で前に回ったり立ち止まって先を行く鈴木さんの後ろ姿を撮ったりしながら、順調に距離を稼いでいきます。四日市市街地を抜けて、旧東海道と伊勢街道の分岐点、追分から小古曽を抜けて行く旧東海道は、鈴木さんに取っても私にとっても初めて歩く道。内部橋を渡り、采女で鈴木さんが買い物をするためにマックスバリュに立ち寄るまでは、休みなしで8kmを順調に1時間15分くらい。

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↑鈴木さんの相棒のリヤカーには「歩いて日本の沿岸一周り」とのプレート。これを読んで声をかけてくる人が、この日も数人。リヤカーの荷台天板には日本地図が描かれ、野宿の時に使うマットレスと、スマホやタブレット端末の充電用に太陽電池が固定されています。
 

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↑お気に入りのマックスバリュで、この日の食料や弁当の買い物。
 買い物を済ませた後、采女の里は、1号線が約2㎞かけて緩やかな上りとなっているのに比べ、旧東海道は、杖衝坂(つえつきざか)の急坂を上ります。今回の同行ウォーキング中、ルート案内を私が受け持つ以外は、鈴木さんの旅スタイルを尊重し、私は傍観者に徹することに努めましたが、さすがにこの急坂では、最後の100mほどは、鈴木さんが曳くリヤカーの後を押して上がります。結果として、杖衝坂がこの日最大の難所となりました。写真ではわかりにくいのですが、ただ歩いて登るだけでもけっこう大変な坂です。天気がよくて幸いでした。雨でも降っていたら、鈴木さんひとりではかなり手こずったと思われます。

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↑ここが、この日最難関だった杖衝坂。このカットを撮ったあと、私もリヤカーの後ろを押してやっとのことで坂上まで……。通常は押して行くリヤカーですが、急な上り坂ではこのように曳いていきます。

 四日市の外れ、采女の里を抜けて鈴鹿市に入るころから、追い風だった風が、かなり強い向かい風に変わりましたが、鈴木さんのペースは落ちません。私も負けていられないと、相変わらずおしゃべりしながら歩きます。

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↑石薬師一里塚

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↑堤防下で風を避けながら、ちょっと早い昼食中。
 鈴木さんは、三重県伊勢市の出身。少年の頃に図書館で読んだ伊能忠敬の伝記に感動し、長い間、伊能忠敬の歩いた道を旅する夢を温めていたそうです。昭和42年に愛知県に移り、以後大府市で大工の仕事をされてきました。私が大学進学で名古屋住み始めたのが昭和41年ですから、青春の第二の人生スタートは同じ時期だったことを知りました。
 道すがら、鈴木さんの若き時代の苦労の日々の話や、もちろん伊能忠敬先生や伊勢松阪が生んだ稀代の探検家にして清廉潔白な偉人・松浦武四郎さんの話題、そして鈴木さん自身の日本の沿岸を一周するリヤカー旅の、第一次(2015年)、第二次(2016年)の旅の話など、話しても話しても尽きない話題が続きました。
 鈴木さんが、少年の頃からの夢を実現すべく、リヤカーで第一次の旅に出発したのは、72歳の春。愛知県大府市の自宅から、太平洋岸の海岸線を辿り東北地方を北上、北海道に渡って反時計回りに一周。帰路は、青森から日本海側を福井まで歩き、関ヶ原経由で名古屋熱田神宮まで戻ったのは、ちょうど7か月後の10月でした。北海道は歩きやすく、一日に40kmくらい行けたとか。北海道以外は、大体一日に20〜30kmのペースで歩を進めるとのこと。
 昨年の第二次の旅では、愛知県大府市から北陸へ抜け、山陰の日本海側を山口まで。九州に渡り、反時計回りに九州を一周。帰路は瀬戸内海沿岸、大阪、滋賀を経由し亀山を通って四日市まで、約6か月の旅。ビジネスホテル泊まりと野宿は、ほぼ半々というのが、鈴木さんの旅スタイル。全国どこにでもあるマックスバリュが、朝7時から開いているので、そこで食料等の買い物をするのが常らしい。
 鈴木さんにとって、今回が第三次で最後の一周旅になります。前回歩き残した、大府市から名古屋を抜けて四日市まで歩いて来たところで、私が飛び入り同行をさせてもらったという訳です。
 鈴鹿市に入り、しばらくは国道1号線と旧東海道と重なる部分もあり、多くは交差しながら蛇行している旧東海道を通っていきます。石薬師宿庄野宿の中間、石薬師の一里塚付近で、11時半、鈴木さんはちょっと早い昼食を済ませます。旅の間、鈴木さんは一日に5食という日々が続きますが、歩いているせいでスリムな体型に変化はないそう。
 風の当たらぬ鈴鹿川の堤防下で小休止の後、庄野宿を順調に抜け、亀山市に入る手前、関西線の駅と旧東海道が重なる井田川駅で、もう一度小休止。休んでいる間も、私たちはほとんどしゃべりっぱなし。

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↑庄野宿に入る手前まで、しばらく国道1号線沿いと旧東海道が重なっている部分があり、大型トラックがすぐ脇を走って行く。この日は、旧東海道の、今は静かな道を歩くことが多くて、鈴木さんには喜んでいただけました。
 井田川から、河岸段丘の上に開けた旧東海道亀山宿までは、緩やかな上り勾配が続きますが、鈴木さんの足取りは変わりません。井田川駅で休んだあと、「ああ、これで足の疲れた取れた」とボソッとおっしゃった鈴木さんの言葉に、私は正直、ホッとしました。「鈴木さんも少しは疲れるんだな」と安心したのです。

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↑庄野宿資料館前には、広重のあの有名な庄野宿の浮世絵が……

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↑庄野宿から亀山宿に至る途中、旧東海道が安楽川で遮られ、この部分は少し迂回して新しい橋を渡ります。背後に、前日の寒波で再度冠雪した御在所岳が見えます。

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↑関西本線・井田川駅前の鈴木さん(左)と私。

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↑亀山宿に至る緩やかな勾配を登る。

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↑鈴木さんのリヤカー押しは、通常はこのスタイル。後方左手に見えるのは、亀山宿江戸方向の一里塚跡。

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↑各戸に昔の屋号のプレートがかかる、亀山宿手前の旧東海道。

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↑亀山城址の脇の下り坂を行く。

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↑私と別れて、この日の宿泊地、関宿方面へ向かう鈴木さんの後ろ姿。また夏の終わりに会いましょう……と約束して別れる

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↑鈴木さんが自ら彫り上げたカエルの置物。旅の途上で協力者の方にさしあげる木彫りのカエルを私にもくださいました。恐縮です。
 午後3時10分、亀山城の下で、「今夜は関宿泊まり」という鈴木さんの前途無事を祈りつつ、今日一日一緒に歩かせていただいたお礼を伝えて、ホテルを探しながら関宿方面へ国道1号線を西に向かう鈴木さんの後ろ姿を見送りました。
 この後、鈴木さんは伊賀、奈良を抜けて和歌山から徳島に渡り、四国を一周した後、再び和歌山へ戻って、帰路は紀伊半島の太平洋岸をぐるりと半周して伊勢から尾張へと戻る予定です。夏の終わりに、伊勢を通過する時に、また一緒に歩きたいと再会を約束してあります。
 午後6時過ぎ、鈴木さんから自宅に戻っていた私に電話がありました。「今夜は、ホテルが取れなかったので関宿の道の駅の隅で野宿します」との連絡。「あんたのお蔭で道に迷わず、旧道を歩けた。今日はとっても楽しかった」とも言ってくださいました。私にとっても忘れられない一日になりました。初対面の方と、こんなに楽しく一緒に歩けるなんて思いませんでした。旧東海道の案内役ができたことで、今後の私の旧東海道ウォーキングにちょっと自信もつきました。
 関宿まで行った鈴木さんの、この日の総歩行距離は31.5kmだったようですが、四日市のホテルから、亀山宿で鈴木さんと別れるまでの私のウォーキング・データは次の通りです。写真撮影のために道路をジグザグに走ったりしたので、鈴木さんのデータに比べて少し多めの数値になっていますね。実際には、7時49分より前に足慣らしで6㎞ほど余分に歩いているんですけどね。だから、この日一日で私が歩いたのは、約34kmということになります。

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ルート: 旧東海道【四日市宿〜亀山宿】
アクティビティー: ウォーキング
スタート: 2017/03/27 7:49:31
移動時間: 5:29:02
停止時間: 2:04:11
距離: 28.17 km
平均ペース: 5:12/km
最高ペース:  7:43/km
カロリー消費: 1616

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2017年1月22日 (日)

俄然興味が湧いてきた      松浦武四郎という偉人

 過日、津市の石水博物館に『江戸時代を歩こう~古絵図・錦絵・名所図会を携えて~』という特別展を観にいった折り、同博物館主催で『炎の旅人 松浦武四郎』という記念講演会が開催されることを知りました。早速その場で聴講を申し込み、1月22日(日)に、講演会の会場である三重県立美術館へ行ってきました。

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 松浦武四郎という人物については、「北海道という地名の名付け親。江戸から明治期にかけて、蝦夷地を探険した人」というくらいのわずかな知識しかなかったのですが、伊勢亀山に移住してから、松浦武四郎が伊勢松阪出身であることを知りました。

 幕末の蝦夷地探険というと、私の尊敬する伊能忠敬や間宮林蔵という人が思い浮かびます。伊能忠敬を心の師と仰ぐ私にとって、石水博物館の『江戸時代を歩こう~古絵図・錦絵・名所図会を携えて~』は、見逃すことができない特別展でした。それを機会に、松浦武四郎という人物についてもっと知りたくなったのは、何か運命的なものを感じます。

 伊能忠敬先生が亡くなって来年(2018年)で200年になります。私は、今、伊能忠敬研究会の末席を汚す会員ですが、来年研究会では没後200年を記念してのイベントを開催する予定で、私もそのお手伝いをしています。松浦武四郎は、伊能忠敬先生が亡くなった年、1818年(文政元年)に現在の三重県松阪市に生まれています。この偶然を、私はとても偶然として片付けることができません。

 来年、2018年は、伊能忠敬没後200年、そして、松浦武四郎生誕200年の年になります。改めて二人の偉大なる先人について学ぶ絶好の機会です。今、期せずして伊勢亀山の住人になった伊能忠敬ファンの私にとって、松浦武四郎という人物に出会うのは必然だったような気がしてきました。

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 今回の『炎の旅人 松浦武四郎』と題する講演会(講師は、松阪の松浦武四郎記念館・主任学芸員の山本命氏)を聴いて、ますます、この伊勢が生んだ探検家にして旅人、登山家であり、ルポライターであり出版人でもある松浦武四郎に興味がかき立てられました。偉大な業績を残している人物なのに、伊能忠敬や間宮林蔵のように一般にはほとんど知られておらず、教科書に登場することもなかったはなぜなのか……講師の山本氏の言葉を借りれば、「反骨の人であったということ。松前藩や幕府、そして明治政府に対しても、その蝦夷政策を批判したことと無縁ではない」ということのようです。

 アイヌ民族との交流、アイヌ民族の文化保護や地位向上に尽くしたヒューマニスト・松浦武四郎は、もっともっと知られるべき偉人だと思います。特に、北方領土問題や、大国が自国第一の保護主義に走る気配が濃厚な世界情勢を見るとき、民族や地域差の壁を超えて、協調の理念を貫いた人物、松浦武四郎の姿勢に学ぶことは山ほどあるように感じます。

 しばらく、伊能忠敬先生同様、松浦武四郎先生のことを研究してみたくなりました。


↓松阪では、松浦武四郎記念館を中心に、毎年2月最終日曜日に『武四郎まつり』を開催しています。

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2016年11月27日 (日)

『木の上の軍隊』、感動の最終日公演

 感動の舞台の幕が下りました。
 こまつ座の公演『木の上の軍隊』(井上ひさし・原案、蓬莱竜太・作、栗山民也・演出、出演=山西惇、松下洸平、普天間かおり/有働皆美Viola)は、故・井上ひさし氏の未完の作品を蓬莱竜太が、井上ひさしの遺志を引き継いで完成させた戯曲で、3年前に初演されています。今回の公演とは異なる配役(山西惇は初演時にも出演)での初演を観ていないので、比べることはできませんが、旧知の友人でもあるシンガーソングライターの普天間かおりさんが初舞台に挑戦するということで、とても楽しみにしていた公演です。
 
 早く観たい気持ちを抑えて、敢えて最終日を選んでチケットを買ったのは、初めて演劇の舞台で重要な役を演じる普天間かおり(以下敬称略)の努力が結実する場に居合わせたいと思ったからでした。
 彼女はその期待に見事に応えてくれました。山西惇、松下洸平という優れた役者の演技はもちろん、要所要所で効果的なBGMを舞台袖で奏でるヴィオラの有働皆美も素晴らしかったのですが、普天間かおりは、彼女のために書き下ろされたのではないかと思えるほどのハマり役ぶりを発揮してくれました。

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>「実話から生まれたいのちの寓話が今、
  語りかける。
  ある南の島。
  ガジュマルの木に逃げ込んだ兵士二人は、
  敗戦に気づかず、二年間も孤独な戦争を
  続けた――
  
  人間のあらゆる心情を巧みに演じ分け、観
  る者の心に深く刻みつける山西惇が、再び
  本土出身の"上官"を演じる。
  注目の新キャスト・松下洸平は、柔らかく、
  おおらかな存在感で島出身の"新兵"に挑
  む。
  歌手・普天間かおりをガジュマルに棲みつ
  く精霊"語る女"に抜擢。琉歌に乗せて島の
  風を吹き込む……こまつ座のHP より)

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↑こまつ座HPより

 この芝居は過去の悲惨な戦争とその後の2年間を描きながら、今の沖縄が置かれている状況に思いを馳せざるを得ない物語です。私たちが属している国家の醜い姿も透けて見えます。本土が沖縄に押しつけてきて、省みられることの少なかった不幸で一方的な関係について、改めて考えさせられた2時間でした。
 沖縄を故郷に持つ普天間かおりにとっては、他人事でない物語だったと思います。人柄に惚れて彼女の歌を聴き続けてきましたが、舞台女優としての側面を引き出してくれたこまつ座の英断に拍手です。この舞台での経験は、普天間かおりをまたひと回り大きくしてくれることと思います。
 初舞台へかける彼女の想いと並々ならぬ努力で、無事に楽日を迎えた安堵感もあったのでしょうが、終盤の台詞を語る彼女の目には溢れたものは、沖縄で生まれ育ったという彼女ならではの感情の発露でもあったはず。それを観ている私にも熱いモノがこみ上げてきました。
 この芝居が、全ての日本人に問いかけてくるものは重く大きい。きな臭い政治状況に投げかけられた、沖縄の心の叫びでもあると受けとめました。再演の機会があるなら、また普天間かおりで観てみたい。と同時に、ぜひもっと多くの人に観て欲しい芝居です。

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2016年11月14日 (月)

知らなかったメキシコの巨匠   マヌエル・アルバレス・ブラボ

 大変お恥ずかしい話ですが、大学時代にスペイン語を専攻し、今も細々とスペイン語の勉強を続けている私です。スペインや中南米の文化、芸術には普通の日本人よりは多少興味もあり知識もあると自負してきました。しかし、一昨日までメキシコの20世紀を代表する写真家アルバレス・ブラボについては、全く何も知らなかったことを、今、とても恥じています。
 名古屋市美術館で開かれている『アルバレス・ブラボ写真展〜メキシコ、静かなる光と時』を観てきました。

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↑名古屋市美術館エントランス

 アルバレス・ブラボ(Manuel Álvarez Bravo 1902〜2002)は、若き日にメキシコ革命の渦中にいたことも含めて、まさに20世紀の100年を生き、数多くの傑作を残した偉大な写真家であることを、今更ながら知ることができました。
 今回展示されていた200点近い作品(当然のことながら全てモノクローム)の中には、強く惹かれる作品や印象的な作品が数多くありましたが、私はその作品のひとつひとつよりも、アルバレス・ブラボの視点の多様性と独自性に感銘を受けました。全くの素人写真で写真を撮ることが好きな私には、不遜な言い方ですが、とても共感できる視点を感じました。彼のように撮れないのは重々承知でいうと、そこにいたら私も同じ視点で写真を撮ろうとしたのではないかと思ったりしました。「こんな写真が撮りたい」という気持ちは、私だけでなく写真好きの人ならだれでも思うものですが、そのイメージを印画紙に定着させるまでの感性と技術という点で、アルバレス・ブラボは類い希な才能を持っていたのだと思います。
 写されたものの中には、極めて非日常的なものもありますが、ほとんどは誰でもがそこに行けば見られるような日常的な光景を、独自の視点で切り取った作品にアルバレス・ブラボの真髄があるように感じられました。

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↑同展のパンフレットより

 しかし、今までこの写真家のことを何ひとつ知らなかったこと、ほんとうに恥ずかしい。メキシコ革命下で起こった壁画運動の、リベラ、シケイロス、オロスコ……といった画家やその作品については多少知っていたのに……それでも、今アルバレス・ブラボの作品に接することができたことは幸せでした。
 マヌエル・アルバレス・ブラボについては下記のホームページに詳しい解説があります。

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2016年8月 1日 (月)

25年以上続く愛読者交流会

 インターネット全盛の現在では、もはや死語に近い「パソコン通信」。私がそのパソコン通信で初めてNIFTY-Serveに接続したのは、同サービス開始の翌年、1988年4月17日のことでした。同時期に日経MIXというサービスにも加入しました。当初はワープロ専用機の東芝ルポで接続したのでした。その後 、 当時使用していたMacintoshSEでも接続することができましたが、あの頃の通信設定にはほんとうに苦労させられのを思い出します。

 当時、私はアウトドア・ライフ誌BE-PALの編集長という立場でしたが、編集後記に「私のNIFTY-ServeIDPBB◯◯◯◯◯です。このID宛てにメッセージをいただければ必ずご返事を差し上げます」と書いたことがあります。今ではとても考えられない暴挙ですね。NIFTY-Serveの会員も、『BE-PAL』の発行部数と同じ10万~20万人規模だった頃の話ですが、インターネットのメールアドレスを雑誌に載せて「必ず返事を差し上げます」などと約束したら……と思うとゾッとします。

 実はそれ以前、1986年に、在籍していた『BE-PAL』編集部で、初めて編集長を拝命した時から、ちょっとした訳があって、編集部宛に届く読者の方からのお便りやアンケートのハガキに、1日最低20通は返事を書くということを自らにノルマとして課しており、毎日20通、週に100通のハガキを書き続けておりました。その日課は、その後『サライ』『ラピタ』などの編集長を務めていた現役時代の最後まで続きました。年間に約5千通のハガキを約20年間書き続けたことになります。

 読者の方と誌面外でも、できるだけコミュニケーションをとることをモットーとしていた私は、パソコン通信の出現は大いに歓迎すべき出来事でした。なので、気軽に「メールを下さった方には必ず返事を書く」などと書いてしまったのです。

 今では想像もできないでしょうが、インターネットと異なり、限定された会員同士のメールのやりとりしかできなかった初期のパソコン通信でしたから、ひと月に届いたメールは20通に満たなかったと記憶しています。そのうち、メールのやりとりをする読者の方が次第に増えていき、常連の読者の方に対して『ドン・キホーテ通信』という名の同報メール(今ならさしずめメール・マガジンといったところでしょうか)を配信するようになりました。

 ただ、通信費も端末機器も私個人の負担で行う、非公式の愛読者とのメールのやりとりでしたから、必ずしも定期的というわけではありませんでした。その私が配信する同報メールの会員が50名に達した頃、私と愛読者との放射線状の繋がりだけでなく、私からの同報メールを受け取っている読者の方同士が繋がることはできないだろうかと考えるようになりました。インターネットのSNSなら、いともたやすいことですが、フォーラムを開設するほどの規模でもなかった私と読者の方との繋がりでしたから、まずはオフラインで皆さんのお目にか掛かることから始めようと考えました。その頃、通信を通じて知り合って、すでに家族ぐるみでのお付き合いが始まっていた読者のお一人Oさんと相談し、私と愛読者の皆さんとの初めてのオフライン・ミーティングを実施したのが、1990年の8月25日のことでした。

↓下の写真は、その初めてのオフライン・ミーティングに参加した皆さんとの、六本木のスペイン料理レストラン前での記念写真です。前列左から3人目が私ですが、その右斜め後ろのグリーンのポロシャツの男性が当時『BE-PAL』のフリーランス・スタッフだったKさん。それ以外の方は全て『BE-PAL』の読者の方とその配偶者の皆さんでした。

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 あれから、25年以上の歳月が流れましたが、同報メールからメーリングリスト……現在のFacebookとネット上の交流の手段は変わりましたが、毎年全国どこかの場所で何度かのオフライン・ミーティングを続けながら、私と元読者の皆さんとの交流は今でも続いています。私の編集する雑誌が変わる度に新しいメンバーが増えていきました。もちろん、一時よりも人数は減る一方で、それ以降に新たにメンバーに加わってた読者や仕事仲間の人たちもいて、私がリタイア後も相変わらず年に何度か実際にお目に掛かって飲食を共にしたり、旅をしたりする関係が続いています。

 学校の同窓会でもなく、仕事関係の同期会でもなく、愛読者の皆さんと1編集者とその仕事仲間という集まりが、奇跡的に25年以上続いてきたことは私にとってこの上ない喜びです。素晴らしい読者の方々や仕事仲間と知り合えたこと、そしてそれが4分の1世紀も続いてきたこと、編集者冥利に尽きます。

 今では、読者と編集者や仕事仲間という関係ではなく、性別も年齢も職業もさまざまな貴重な友人同士としてのお付き合いになりました。ありがたいことに、雑誌の編集という仕事をしていたことがきっかけで、私には誇るべき生涯の友人ができたのです。我ながら、ほんとうに幸せ者だと思います。

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2016年7月28日 (木)

私がスペイン語を学んだ訳

 私が中学校を卒業した1963年春、雑誌『ボーイズライフ』(小学館・刊)の創刊記念ヨーロッパ読者特派員募集に応募して、運良く全国で2名の特派員に選ばれ、高校1年生の夏休みに、ロンドン〜パリ〜ローマを巡る旅を経験させてもらいました。
 その貴重な体験は、私の将来の夢であった建築家への道をさっさと変更し、「雑誌編集者になりたい」という新たな夢を描くきっかけになりました。海外旅行が自由化される前にヨーロッパを旅したことで、海外への憧れも強くなり、雑誌編集者になれたら、海外へ取材に行くという妄想が膨らんでいきました。
 中学時代から英語の勉強は好きでしたが、英語を学ぶ学生の数は膨大なので、何か別の言語を学びたいものだと思っていました。「ユニークであれ! 鶏口となるも牛後となるなかれ、という言葉もある」と父からしばしば聞かされて育ったこともあり、人があまり学ばない言語を学びたいと思うようになったのです。

 初めての海外旅行で、ロンドン、パリ、ローマを訪ねたので、「英語、フランス語、イタリア語には触れた、ならば、同じヨーロッパ言語で多くの国や人々が使っている言語は?」……と調べていて、出会ったのがスペイン語でした。

 高校2年の時に、当時は日本語で書かれたスペイン語の入門書はこれしか見当たらなかった『スペイン語四週間』(大学書林・刊)を手に入れました。著者は東京外国語大学教授・笠井鎮夫。この本を読んでいるうちに、著者である笠井鎮夫先生(1895〜1989)に、直に教えを請いたいと思うようになりました。笠井先生が岡山県出身であるということを知って尚更その気持ちに拍車がかかりました。で、調べて見ると、笠井先生はすでに東京外国語大学名誉教授を退官されており、名古屋の南山大学外国語学部イスパニヤ科で教鞭を執られていることがわかりました。それまで、進学先として全く視野に入っていなかった南山大学の名前を知ったのは高校2年の秋頃だったと思います。

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 英語教師のH先生に相談すると、「外国語を学ぶなら、南山大学は悪くないよ。先輩にこの高校の卒業生はいないと思うけど、挑戦してみたら?」と、アドバイスをいただきました。入学試験の前には、当時唯一の『西和辞典』であった白水社の辞書を買い、絶対に受かって見せるぞと意気込んだのを覚えています。その『西和辞典』の編者、高橋正武先生(1908〜1984)も岡山県出身の方で、南山大学で教えておられると知った時には、「これはもう、運命としか考えられない」とまで思ったものです。ですから、他大学のスペイン語学科にも受かってはいましたが、もう南山大学に行くしかないと決めました。

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 笠井先生が『スペイン語四週間』の初版を出版されたのは1933年(最初は『西班牙語四週間』の題で出版されていた)ですから、昭和の日本でスペイン語を学んだ学生で笠井先生のお名前を知らない人はいないはずです。そのご著書『スペイン語四週間』が今でも書店店頭やAmazonで売られていることに感動を覚えます。また、1958年に初版が出た『西和辞典』(白水社・刊)の編者である高橋正武先生のお名前も同様でしょう。

 念願叶って大学でスペイン語を学ぶことになった私は、入学してまっ先に笠井先生の研究室にご挨拶に伺いました。「岡山県出身です」と申し上げたら、「ほぉ、それは珍しい」と喜んでくださいました。当時南山大学、特にイスパニヤ科に岡山県の高校から進学する学生はほとんどいなかったからでしょう。その時、笠井先生は70歳でいらっしゃったはずで、今の私と1歳しか違わなかったことになります。近代日本のスペイン語教育界の重鎮であり、一方で日本古来の怪異譚の研究家(1966年には、『近代日本霊異実録』という本も出版された)でもあった笠井先生は、その頃すでに痩身ながら堂々たる威厳と風格をお持ちでした。

 それにしても、半世紀前の60〜70歳代の方々のなんと威風堂々としていたことか!私など60代最後の年だというのに、未だに青二才のような気がしております。笠井先生からスペイン語を学ぶという夢が実現し、その後に、雑誌編集者になるという夢も叶ったことになります。私は、多くの同級生が商社などスペイン語を活用できる世界へと就職したのと異なり、出版社へ就職しました。高校時代からの夢が捨てきれなかったのですが、その出版社の入社面接で、思いがけずスペイン語を学んだことが役に立って入社できたのだと今でも信じています。そのことについては、また機会を改めて書くことにします。

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2016年3月11日 (金)

あれから5年……

2011年3月11日。その日私は午前中に、音羽にある大出版社を訪ねて打合せをすませ、同行した電子書籍関連の仕事仲間と食事をして別れ、護国寺で咲き始めた桜を見てから、午後の社外での会議に出席するため、六本木に向かいました。

 午後2時46分、私は六本木ヒルズ森タワーの49階で午後3時から開かれる文化庁関連の会議に出席するため、森タワー1階から直通エレベーターに乗って、49のボタンを押したのです。しかし、ボタンが反応しません。もう一度ボタンを押した時に、ドンッという衝撃が感じられて大きな揺れがエレベーターを揺らし始めたのです。エレベーターのドアが開いたままだったのが幸いでした。転がるようにしてエレベーターホールに飛び出しました。同じ会議に出る予定だった通商産業省の方と出会い、彼から東北で大地震発生と教えてもらいました。同じ会議に出席のため、早く49階へ行っていた参加者は、その日夜遅くになってビルから出ることができたと後で知りました。
 すぐに勤め先に「無事であること。直接帰宅すること」を連絡しました。
 その後のことは断片的にしか覚えていないのですが、まずは六本木交差点脇のSoftBankのショップでiPhoneを充電させてもらい、地下鉄がストップしていたので、赤坂にいた友人と連絡をとりあって落ち合い、溜池から銀座を抜けて日本橋方面へ歩いていたら途中で都営線だけは動いていることを知ったはず。JRや京成が動いていないので、その日は都内の友人宅へ泊めてもらいました。
 翌日土曜日に千葉稲毛の自宅に戻ってみると、私の書斎が開かずの間になっておりました。部屋の中に物が散乱し、本棚が崩れているために、押して開ける書斎のドアが開かないのです。それでも、ドアをこじ開け、手前から少しずつ物を動かして2時間ほどかかって入った部屋は足の踏み場もない状況になっていました。下の写真が、3月12日土曜日の千葉市稲毛区のマンション1階にあった自宅書斎の様子です。

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 大地震、巨大津波の震災が引き起こした数々の悲しい現実に関しては、私がここで書く必要はないでしょう。私は、あの震災で失われた多くの命と、5年経った今でもその悲しさや辛さから解放されない多くの人々に思いを馳せる時、今でもあの時の衝撃と悲しみをまざまざと思い出します。

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2014年9月11日 (木)

『四千万歩の男』を読み終えて

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 1年以上かかって、伊能忠敬を主人公に据えた時代小説、『四千万歩の男』(井上ひさし・著 講談社文庫)の本編全5冊、別冊1の計6冊を読み終えました。本編だけで、四百字詰め原稿用紙にして5千枚以上、文庫本のページ数で3290ページ。これに別冊の278ページを足すと、3568ページになります。確かに、稀に見る長編であることに違いありませんが、読了までに1年以上もかかるのは、余りにもノロいのではないかと思われるかもしれません。

 長い時間をかけて読み継いだのには、二つの理由があります。一つは、読み始めたのが昨年の夏前で、直後に長年勤めてきた会社を辞め、下総千葉と伊勢亀山を車で行き来しながら義父の介助と引越の準備に追われてまとまった時間が取れなかったという理由です。列車での移動なら乗車時間に読書も可能だったかも知れませんが、車ではそうはいきません。
 二つ目の理由は、言い訳ではなくて合理的な理由でした。この『四千万歩の男』で描かれているのは、伊能忠敬の生涯の内、最初の奥州、蝦夷への測量の旅に出発した年、寛政十二年(1800年)の正月2日から、翌年、伊豆への測量の旅から江戸に戻り、その後房総から東日本の海岸線を測量する旅に出発する享和元年(1801年)6月19日までのわずか1年半なのです。50歳で隠居した忠敬先生が、56歳から72歳までの足かけ17年間、地球一周を超える距離を歩き通して実測した日本の地図、『大日本沿海輿地全図』(伊能図と呼ばれる)を作り上げた偉業の、その最初の1年半しか描かれていない。
 井上ひさし氏は、この1年半の物語を書くのに実働7年の歳月を要したと語っています。(『四千万歩の男』は、1977年1月から1983年8月まで『週刊現代』に連載されました)後に、井上氏自身があちこちで何度も書いたり語ったりしていますが、「伊能忠敬という人の、愚直な一歩一歩、愚直な一日一日の積み重ねこそが偉業に結びついた。それを、はしょって書いてもしようがないと思った。この小説は構想の七分の一しか書いていない。全部書くためには120歳くらいまでかかってしまう」。
 そういうわけで、この小説は享和元年の6月19日の朝でぷつりと、突然終わっています。井上氏がこの小説を40代で書いたことにも驚きますが、描かれた伊能忠敬先生の気の遠くなるような第二の人生の「愚直な歩測の積み重ね」にも改めて驚かされます。
 著者は、残されている膨大な史実の記録を下敷きにしながら、その測量日誌に書き残されている事実の前後、行間に小説としての娯楽性を加味創造し、愚直な一歩、平凡な測量の一日一日を波乱に富んだ日々に仕立てて、読む者を飽きさせない工夫を散りばめています。
 私が読了までに1年半近くの時間をかけたもうひとつの理由がここにあります。そう、この小説に描かれた1日分を、およそ1日で読み続けることにしたのです。そうすることで、伊能忠敬先生が過ごした歳月の流れに添うことで、より一層共感が増したように思えます。

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↑富岡八幡宮境内の伊能忠敬像は、最も新しい像だとされています。私は、この像の忠敬先生のお顔が一番好きです。

『四千万歩の男』は、単なる伊能忠敬の伝記ではありません。史実に忠実な歴史小説というのでもなく、まさに人間・伊能忠敬を主人公にした時代小説の趣きがあります。測量日誌には書かれていない、恋や友情、師弟愛があり、幕府と地方藩の陰謀渦巻く事件起こり、暗殺、暗闘、仇討ちや一揆にも否応なく巻きこまれていく伊能忠敬……という、井上ひさし氏ならではの物語展開には、無理を承知で引き込まれていきます。なにしろ、史実を曲げないで、架空の物語を挿入するとなると、測量日誌には描かれていない空白の時間帯に起こる事件を書くしかないわけで、多くの事件が夜間に起こり、忠敬先生の八面六臂の活躍はほとんど徹夜の連続になってしまいます。
 随所に登場する江戸の有名人たちとの交流や接触も、嘘だろ!と思う一方、「さもありなん」とも思わせるものがあり、歴史を身近に感じさせてくれます。
 この小説については、また改めてその不合理な疑問点などを書いてみたいと思いますが、今は、長編を読み終えた充足感に包まれております。

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↑九十九里町小関(忠敬先生生誕の地)にある記念公園内の銅像。

 小説を読んでいる間に、私は、忠敬先生がそうしたように、毎日歩くという日課をこなしながら、忠敬先生が江戸に出てきてから住んでいた深川黒江町(現・門前仲町)界隈を訪ね、歩測の練習をした黒江町から浅草司天台(現・浅草橋)への道を何度も歩き、測量の旅に出る前に参詣したといわれる富岡八幡宮(境内に忠敬先生の銅像もあります)へも通いました。そして、出生地の九十九里町小関や、隠居するまでの間入り婿として商売に勤しんだ伊能家の本拠地、佐原へも何度か足を運びました。佐原には、伊能忠敬記念館もあります。もちろん、稲荷町(東上野)の源空寺にある忠敬先生のお墓もこの一年で4度訪ねました。一歩一歩、忠敬先生の背中に追いつくと見えて、その距離はなかなか縮まりません。

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↑源空寺墓所にある忠敬先生のお墓には、その都度近況報告に訪れました。

 今後も、私は尊敬する忠敬先生の生き方、偉業に学び続けることになると思います。この『四千万歩の男』に描かれた忠敬先生が実像に近いのか虚像なのか、その判断は当分先のことになることでしょう。

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2014年3月18日 (火)

改めて、坂田明の『ひまわり』を聴く

 坂田明の『ひまわり』を聴きながら泣いています。もう8年前に発売されたアルバムですが、このCDはすごい! 映画『ひまわり』のテーマ・ミュージックは、誰の演奏でも泣く私ですが、このアルバムは特別です。プロデューサーは、坂田明とチェルノブイリを旅した鎌田實さん。3.11から3年経った今聴くと、余計にこみ上げるものがあります。このアルバムに収録された全ての曲が素晴らしいのですが、YouTubeに『ひまわり』がUPされていたので、リンクをコピーします。8年前にも涙した私ですが、その後に日本で前代未聞の事故が起こった後の今、改めて聴くと涙が止まりません。
http://www.youtube.com/watch?v=8-g6Gna3uZw
CD『ひまわり』/坂田明(がんばらないレーベル・¥2,500)の収録曲は下記の通りです。
  01. ひまわり (ヘンリー・マンシーニ)   
   02. 見上げてごらん夜の星を (いずみたく)   
   03. ウェディング・マーチ (坂田明)   
   04. 遠くへ行きたい (中村八大)   
   05. 死んだ男の残したものは (武満徹)   
   06. 早春賦 (中田章)   
   07. 水母 (坂田明)   
ボーナス・トラックとして
   08. G線上のアリア (ヨハン・セバスチャン・バッハ) <※>   
   09. Air On The G String (J.S.Bach)   

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