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2017年7月に作成された記事

2017年7月23日 (日)

シェルパ斉藤さんのこと

 先週、八ヶ岳に行く機会があったので、久しぶりに、山麓に居を構えて22年になる斉藤政喜さんを訪ねました。斉藤(筆名:シェルパ斉藤)さんは、私の『BE-PAL』時代の若き盟友であり、今や押しも押されもしない人気エッセイストです。

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↑斉藤政喜さん(右)と彼の良きパートナー・京子さん

 今から31年前、1986年の春。前年に『BE-PAL』の編集長代理になっていた私の元に、一通の手紙が届きました。「中国の長江をゴムボートで下る計画をしている。ついては、何らかの形でスポンサーになってくれませんか」という、名古屋在住の大学生からの手紙でした。その手紙の文章の独特の言い回しに面白そうな人柄がにじみ出ており、溢れる熱意にほだされた私は、「一度東京へ出てきて会いませんか? 詳しい話はその時に……」と、当時埼玉にあった彼の実家への帰省時にでも編集部へ寄ってくれるように誘ったのです。
 二か月後に編集部を訪ねてきてくれたその大学生こそが、斉藤政喜さんでした。私がちょうど「代理」の肩書きがとれて、『BE-PAL』の編集長になった直後のことだったので、今でもその時のことをはっきり覚えています。  斉藤さんが熱く語る長江ゴムボート下りの旅の話に、私は、ゴムボートやその他の装備を提供してくれそうなアウトドア用品メーカーの名前を挙げて、「紀行文を『BE-PAL』で発表する」と言えば、興味を示すスポンサーがいるかもしれないとアドバイスをしたのでした。それよりも、初対面の私が興味をもったのは、その2年前に斉藤さんがオートバイでオーストラリアを走破した時の話。数々のエピソードが面白くて、「その旅のことを、今度手紙に書いて送ってくれませんか」と言ったと思います。
 後日、彼から送られてきた「オートバイでオーストラリアぐるり一周」の草稿は、荒削りの文章でしたが、実に面白い。読む者が思わず吹き出すようなユーモアに溢れた文章に魅せられました。  その年の暮れのことだったと思います。長江をゴムボートで下った旅のレポートを『BE-PAL』に書いてもらったのをきっかけに、他誌の手垢のついていない若い書き手を輩出したいという、『BE-PAL』創刊以来の悲願を、彼に託してみたいと思うようになりました。
 教師になるつもりだった彼に、「最初は苦労すると思うけど、あなたの文章には他にない魅力がある。しばらく『BE-PAL』で取材のアシスタントなどしながら、旅のライター修業をしてみるつもりがあるなら、アルバイト代くらい払いますよ」と、前途ある青年に冒険心をくすぐる言葉を掛けたのは私です。  以来、斉藤さんがライター、エッセイストとして独り立ちする日を、誰よりも心待ちにしていた私ですが、内心、そうならなかった場合に、自分が責任を取れるのかという不安も抱えていました。
 斉藤さんは、持ち前の明るい性格とポジティブな発想で、アシスタントからデータ原稿の作成、記事の執筆……そして連載という機会を捉えて、見事にその期待に応えていきました。ただ、私にそう見えていただけで、彼の中では、収入面も含め、不満も不安も抱えて葛藤していた時期があったことを後になって知りました。その責任は、この道に誘い込んだ私にあります。  確かに、斉藤さんが誌面デビューするきっかけを作ったのも、「シェルパ斉藤」のペンネームを考えたのも私ですが、今の彼があるのは、その後に彼とともに連載を人気企画に押し上げるサポートをした優秀な後輩編集者たちです。
 あれから、30年以上の時が流れ、今やアウトドア誌の読者やバックパッカーで、シェルパ斉藤の名前を知らない人はいないほどの存在になった斉藤政喜さんです。そのことを誇らしく思うのと同時に、彼の努力と、それを支えた後輩編集者たちの努力に敬意を表したいと思います。  シェルパ斉藤さんの詳しい略歴と活動の記録は、彼のホームページに詳しく書かれています→ http://www.eps4.comlink.ne.jp/~sherpa/sherupaqitenghis.html

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2017年7月 6日 (木)

『森の探偵』を読んで思うこと

 初めて宮崎学さんと会ったのは、確か1977年、銀座ニコンサロンで彼の写真展『けもの道』が開かれた、その会場でのことだったはず。名刺を交換しただけでしたが、翌年、共立出版から写真集『けもの道』が発行され、私は写真展で受けた感銘を思い出し、彼の開発した無人撮影装置とその設置場所をこの目で見たくなりました。
 当時私は『少年サンデー』編集部に在籍しており、『BE-PAL』創刊プロジェクトにかかわりながら、『少年サンデー』の表紙と巻頭グラビアを担当しておりました。(当時の同誌には、巻頭に8ページのグラビア企画ページがあり、芸能やスポーツ関係を始めジャンルにとらわれない様々な企画を展開していた)トピックス企画の取材という名目で、伊那谷の中央部、駒ヶ根在住の宮崎さんのご自宅を訪ねたのは、1978年10月6日。
 中央高速道が東京方面からは勝沼までしか開通していなかった当時、私は愛車ギャランΣエステートワゴンを駆って千葉稲毛の自宅から首都高、中央道経由で勝沼へ。甲府盆地を抜けて、諏訪の手前から152号線で杖突峠を越え、高遠の町を経由して駒ヶ根へたどり着いたのです。途中、高遠では、下校してくる小学生たちが、ハンドルを握る私に大きな声で「こんにちわ!」と、笑顔で挨拶をしてきた、まるで桃源郷のような光景が、目に焼き付いています。
 宮崎さんのご自宅を訪ね、けもの道に設置してある無人撮影装置の場所まで案内していただきました。当時はまだデジタル・カメラ登場前で、カメラのオート機能も無人撮影には不十分なものだったため、宮崎さんが工夫を重ねて自作した赤外線センサーを利用した装置自体が興味深く、あれこれと不躾な質問をしたものです。
 その時に、彼が熱く語っていた報道写真としての動物写真を撮り続ける姿勢は、今もブレずに貫かれていることが、最新刊の『森の探偵』(小原真史との共著、亜紀書房・刊)を読むとよく分かります。宮崎さんの、頑固に貫かれている自然へのアプローチと、基本は変わらないが、常に新技術も採り入れながら撮影手法を改良してきた柔軟さも兼ね備えた、その姿勢に敬意を表したいと思います。

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 期せずして、長年住み慣れた都会を離れて田舎町の外れに居を移し、日々里山の自然の変化に敏感にならざるを得なくなった私にとっては、宮崎さんが長年拘り続けてきた人と動物との関わり、その接点を観察し記録し続けることの意味が実感をもって受け止められるようになりました。彼が写真を通じて仲介してきた自然界からのメッセージ、人間の営みが生み出すリスクへの警告……など、昨今の害獣施策や熊に襲われる悲劇が繰り返される現実をみると、宮崎さんが発信してきたことの意味が、遅まきながら実感を伴って理解できるようになりました。
『森の探偵』は、とても分かりやすく、宮崎学という希有な存在が取り組んでいる、現実の身近な自然の実態を明らかにする仕事が、私たち自身の問題であることを教えてくれます。

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