私がスペイン語を学んだ訳
私が中学校を卒業した1963年春、雑誌『ボーイズライフ』(小学館・刊)の創刊記念ヨーロッパ読者特派員募集に応募して、運良く全国で2名の特派員に選ばれ、高校1年生の夏休みに、ロンドン〜パリ〜ローマを巡る旅を経験させてもらいました。
その貴重な体験は、私の将来の夢であった建築家への道をさっさと変更し、「雑誌編集者になりたい」という新たな夢を描くきっかけになりました。海外旅行が自由化される前にヨーロッパを旅したことで、海外への憧れも強くなり、雑誌編集者になれたら、海外へ取材に行くという妄想が膨らんでいきました。
中学時代から英語の勉強は好きでしたが、英語を学ぶ学生の数は膨大なので、何か別の言語を学びたいものだと思っていました。「ユニークであれ! 鶏口となるも牛後となるなかれ、という言葉もある」と父からしばしば聞かされて育ったこともあり、人があまり学ばない言語を学びたいと思うようになったのです。
初めての海外旅行で、ロンドン、パリ、ローマを訪ねたので、「英語、フランス語、イタリア語には触れた、ならば、同じヨーロッパ言語で多くの国や人々が使っている言語は?」……と調べていて、出会ったのがスペイン語でした。
高校2年の時に、当時は日本語で書かれたスペイン語の入門書はこれしか見当たらなかった『スペイン語四週間』(大学書林・刊)を手に入れました。著者は東京外国語大学教授・笠井鎮夫。この本を読んでいるうちに、著者である笠井鎮夫先生(1895〜1989)に、直に教えを請いたいと思うようになりました。笠井先生が岡山県出身であるということを知って尚更その気持ちに拍車がかかりました。で、調べて見ると、笠井先生はすでに東京外国語大学名誉教授を退官されており、名古屋の南山大学外国語学部イスパニヤ科で教鞭を執られていることがわかりました。それまで、進学先として全く視野に入っていなかった南山大学の名前を知ったのは高校2年の秋頃だったと思います。
英語教師のH先生に相談すると、「外国語を学ぶなら、南山大学は悪くないよ。先輩にこの高校の卒業生はいないと思うけど、挑戦してみたら?」と、アドバイスをいただきました。入学試験の前には、当時唯一の『西和辞典』であった白水社の辞書を買い、絶対に受かって見せるぞと意気込んだのを覚えています。その『西和辞典』の編者、高橋正武先生(1908〜1984)も岡山県出身の方で、南山大学で教えておられると知った時には、「これはもう、運命としか考えられない」とまで思ったものです。ですから、他大学のスペイン語学科にも受かってはいましたが、もう南山大学に行くしかないと決めました。
| 固定リンク
コメント
敏さんがなぜ南山大学を選んだのかが、いま、わかりました。そして高校一年のときに、小学館の読者特派員募集に選ばれてヨーロッパへ行ったなんて、ここで貴兄の将来が決まったようなものですよね。
スゴイ人だという認識を、また新たにしました。
投稿: 鈴木有史郎 | 2016年7月29日 (金) 13時55分