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2016年7月に作成された記事

2016年7月28日 (木)

私がスペイン語を学んだ訳

 私が中学校を卒業した1963年春、雑誌『ボーイズライフ』(小学館・刊)の創刊記念ヨーロッパ読者特派員募集に応募して、運良く全国で2名の特派員に選ばれ、高校1年生の夏休みに、ロンドン〜パリ〜ローマを巡る旅を経験させてもらいました。
 その貴重な体験は、私の将来の夢であった建築家への道をさっさと変更し、「雑誌編集者になりたい」という新たな夢を描くきっかけになりました。海外旅行が自由化される前にヨーロッパを旅したことで、海外への憧れも強くなり、雑誌編集者になれたら、海外へ取材に行くという妄想が膨らんでいきました。
 中学時代から英語の勉強は好きでしたが、英語を学ぶ学生の数は膨大なので、何か別の言語を学びたいものだと思っていました。「ユニークであれ! 鶏口となるも牛後となるなかれ、という言葉もある」と父からしばしば聞かされて育ったこともあり、人があまり学ばない言語を学びたいと思うようになったのです。

 初めての海外旅行で、ロンドン、パリ、ローマを訪ねたので、「英語、フランス語、イタリア語には触れた、ならば、同じヨーロッパ言語で多くの国や人々が使っている言語は?」……と調べていて、出会ったのがスペイン語でした。

 高校2年の時に、当時は日本語で書かれたスペイン語の入門書はこれしか見当たらなかった『スペイン語四週間』(大学書林・刊)を手に入れました。著者は東京外国語大学教授・笠井鎮夫。この本を読んでいるうちに、著者である笠井鎮夫先生(1895〜1989)に、直に教えを請いたいと思うようになりました。笠井先生が岡山県出身であるということを知って尚更その気持ちに拍車がかかりました。で、調べて見ると、笠井先生はすでに東京外国語大学名誉教授を退官されており、名古屋の南山大学外国語学部イスパニヤ科で教鞭を執られていることがわかりました。それまで、進学先として全く視野に入っていなかった南山大学の名前を知ったのは高校2年の秋頃だったと思います。

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 英語教師のH先生に相談すると、「外国語を学ぶなら、南山大学は悪くないよ。先輩にこの高校の卒業生はいないと思うけど、挑戦してみたら?」と、アドバイスをいただきました。入学試験の前には、当時唯一の『西和辞典』であった白水社の辞書を買い、絶対に受かって見せるぞと意気込んだのを覚えています。その『西和辞典』の編者、高橋正武先生(1908〜1984)も岡山県出身の方で、南山大学で教えておられると知った時には、「これはもう、運命としか考えられない」とまで思ったものです。ですから、他大学のスペイン語学科にも受かってはいましたが、もう南山大学に行くしかないと決めました。

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 笠井先生が『スペイン語四週間』の初版を出版されたのは1933年(最初は『西班牙語四週間』の題で出版されていた)ですから、昭和の日本でスペイン語を学んだ学生で笠井先生のお名前を知らない人はいないはずです。そのご著書『スペイン語四週間』が今でも書店店頭やAmazonで売られていることに感動を覚えます。また、1958年に初版が出た『西和辞典』(白水社・刊)の編者である高橋正武先生のお名前も同様でしょう。

 念願叶って大学でスペイン語を学ぶことになった私は、入学してまっ先に笠井先生の研究室にご挨拶に伺いました。「岡山県出身です」と申し上げたら、「ほぉ、それは珍しい」と喜んでくださいました。当時南山大学、特にイスパニヤ科に岡山県の高校から進学する学生はほとんどいなかったからでしょう。その時、笠井先生は70歳でいらっしゃったはずで、今の私と1歳しか違わなかったことになります。近代日本のスペイン語教育界の重鎮であり、一方で日本古来の怪異譚の研究家(1966年には、『近代日本霊異実録』という本も出版された)でもあった笠井先生は、その頃すでに痩身ながら堂々たる威厳と風格をお持ちでした。

 それにしても、半世紀前の60〜70歳代の方々のなんと威風堂々としていたことか!私など60代最後の年だというのに、未だに青二才のような気がしております。笠井先生からスペイン語を学ぶという夢が実現し、その後に、雑誌編集者になるという夢も叶ったことになります。私は、多くの同級生が商社などスペイン語を活用できる世界へと就職したのと異なり、出版社へ就職しました。高校時代からの夢が捨てきれなかったのですが、その出版社の入社面接で、思いがけずスペイン語を学んだことが役に立って入社できたのだと今でも信じています。そのことについては、また機会を改めて書くことにします。

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