2017年7月23日 (日)

シェルパ斉藤さんのこと

 先週、八ヶ岳に行く機会があったので、久しぶりに、山麓に居を構えて22年になる斉藤政喜さんを訪ねました。斉藤(筆名:シェルパ斉藤)さんは、私の『BE-PAL』時代の若き盟友であり、今や押しも押されもしない人気エッセイストです。

Dsc09555

↑斉藤政喜さん(右)と彼の良きパートナー・京子さん

 今から31年前、1986年の春。前年に『BE-PAL』の編集長代理になっていた私の元に、一通の手紙が届きました。「中国の長江をゴムボートで下る計画をしている。ついては、何らかの形でスポンサーになってくれませんか」という、名古屋在住の大学生からの手紙でした。その手紙の文章の独特の言い回しに面白そうな人柄がにじみ出ており、溢れる熱意にほだされた私は、「一度東京へ出てきて会いませんか? 詳しい話はその時に……」と、当時埼玉にあった彼の実家への帰省時にでも編集部へ寄ってくれるように誘ったのです。
 二か月後に編集部を訪ねてきてくれたその大学生こそが、斉藤政喜さんでした。私がちょうど「代理」の肩書きがとれて、『BE-PAL』の編集長になった直後のことだったので、今でもその時のことをはっきり覚えています。  斉藤さんが熱く語る長江ゴムボート下りの旅の話に、私は、ゴムボートやその他の装備を提供してくれそうなアウトドア用品メーカーの名前を挙げて、「紀行文を『BE-PAL』で発表する」と言えば、興味を示すスポンサーがいるかもしれないとアドバイスをしたのでした。それよりも、初対面の私が興味をもったのは、その2年前に斉藤さんがオートバイでオーストラリアを走破した時の話。数々のエピソードが面白くて、「その旅のことを、今度手紙に書いて送ってくれませんか」と言ったと思います。
 後日、彼から送られてきた「オートバイでオーストラリアぐるり一周」の草稿は、荒削りの文章でしたが、実に面白い。読む者が思わず吹き出すようなユーモアに溢れた文章に魅せられました。  その年の暮れのことだったと思います。長江をゴムボートで下った旅のレポートを『BE-PAL』に書いてもらったのをきっかけに、他誌の手垢のついていない若い書き手を輩出したいという、『BE-PAL』創刊以来の悲願を、彼に託してみたいと思うようになりました。
 教師になるつもりだった彼に、「最初は苦労すると思うけど、あなたの文章には他にない魅力がある。しばらく『BE-PAL』で取材のアシスタントなどしながら、旅のライター修業をしてみるつもりがあるなら、アルバイト代くらい払いますよ」と、前途ある青年に冒険心をくすぐる言葉を掛けたのは私です。  以来、斉藤さんがライター、エッセイストとして独り立ちする日を、誰よりも心待ちにしていた私ですが、内心、そうならなかった場合に、自分が責任を取れるのかという不安も抱えていました。
 斉藤さんは、持ち前の明るい性格とポジティブな発想で、アシスタントからデータ原稿の作成、記事の執筆……そして連載という機会を捉えて、見事にその期待に応えていきました。ただ、私にそう見えていただけで、彼の中では、収入面も含め、不満も不安も抱えて葛藤していた時期があったことを後になって知りました。その責任は、この道に誘い込んだ私にあります。  確かに、斉藤さんが誌面デビューするきっかけを作ったのも、「シェルパ斉藤」のペンネームを考えたのも私ですが、今の彼があるのは、その後に彼とともに連載を人気企画に押し上げるサポートをした優秀な後輩編集者たちです。
 あれから、30年以上の時が流れ、今やアウトドア誌の読者やバックパッカーで、シェルパ斉藤の名前を知らない人はいないほどの存在になった斉藤政喜さんです。そのことを誇らしく思うのと同時に、彼の努力と、それを支えた後輩編集者たちの努力に敬意を表したいと思います。  シェルパ斉藤さんの詳しい略歴と活動の記録は、彼のホームページに詳しく書かれています→ http://www.eps4.comlink.ne.jp/~sherpa/sherupaqitenghis.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 6日 (木)

『森の探偵』を読んで思うこと

 初めて宮崎学さんと会ったのは、確か1977年、銀座ニコンサロンで彼の写真展『けもの道』が開かれた、その会場でのことだったはず。名刺を交換しただけでしたが、翌年、共立出版から写真集『けもの道』が発行され、私は写真展で受けた感銘を思い出し、彼の開発した無人撮影装置とその設置場所をこの目で見たくなりました。
 当時私は『少年サンデー』編集部に在籍しており、『BE-PAL』創刊プロジェクトにかかわりながら、『少年サンデー』の表紙と巻頭グラビアを担当しておりました。(当時の同誌には、巻頭に8ページのグラビア企画ページがあり、芸能やスポーツ関係を始めジャンルにとらわれない様々な企画を展開していた)トピックス企画の取材という名目で、伊那谷の中央部、駒ヶ根在住の宮崎さんのご自宅を訪ねたのは、1978年10月6日。
 中央高速道が東京方面からは勝沼までしか開通していなかった当時、私は愛車ギャランΣエステートワゴンを駆って千葉稲毛の自宅から首都高、中央道経由で勝沼へ。甲府盆地を抜けて、諏訪の手前から152号線で杖突峠を越え、高遠の町を経由して駒ヶ根へたどり着いたのです。途中、高遠では、下校してくる小学生たちが、ハンドルを握る私に大きな声で「こんにちわ!」と、笑顔で挨拶をしてきた、まるで桃源郷のような光景が、目に焼き付いています。
 宮崎さんのご自宅を訪ね、けもの道に設置してある無人撮影装置の場所まで案内していただきました。当時はまだデジタル・カメラ登場前で、カメラのオート機能も無人撮影には不十分なものだったため、宮崎さんが工夫を重ねて自作した赤外線センサーを利用した装置自体が興味深く、あれこれと不躾な質問をしたものです。
 その時に、彼が熱く語っていた報道写真としての動物写真を撮り続ける姿勢は、今もブレずに貫かれていることが、最新刊の『森の探偵』(小原真史との共著、亜紀書房・刊)を読むとよく分かります。宮崎さんの、頑固に貫かれている自然へのアプローチと、基本は変わらないが、常に新技術も採り入れながら撮影手法を改良してきた柔軟さも兼ね備えた、その姿勢に敬意を表したいと思います。

Photo

 期せずして、長年住み慣れた都会を離れて田舎町の外れに居を移し、日々里山の自然の変化に敏感にならざるを得なくなった私にとっては、宮崎さんが長年拘り続けてきた人と動物との関わり、その接点を観察し記録し続けることの意味が実感をもって受け止められるようになりました。彼が写真を通じて仲介してきた自然界からのメッセージ、人間の営みが生み出すリスクへの警告……など、昨今の害獣施策や熊に襲われる悲劇が繰り返される現実をみると、宮崎さんが発信してきたことの意味が、遅まきながら実感を伴って理解できるようになりました。
『森の探偵』は、とても分かりやすく、宮崎学という希有な存在が取り組んでいる、現実の身近な自然の実態を明らかにする仕事が、私たち自身の問題であることを教えてくれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月30日 (火)

私の編集者としてのスタートは 手塚治虫先生担当

 私が、小学館に入社したのは、1971315日。新入社員教習、書店での実習期間が終わり、配属先が決まったのは同年521日のことでした。女性誌で家庭実用欄の編集に携わりたいという希望を持っておりましたが、配属されたのは『ビッグコミック』編集部。まだビッグコミック兄弟誌の『オリジナル』も『スピリッツ』も『スペリオール』も誕生前で、月刊から月2回刊になったばかりの『ビッグコミック』本誌だけでした。

 最初に担当させていただいたのが、手塚治虫先生。『ビッグコミック』では『きりひと讃歌』の連載中で、先輩のSさんから担当を引き継がせていただきました。それから約2年間、いわゆる「手塚担当」をさせていただいたのですが、今思えば、右も左も判らぬ新入社員のかけだし編集者にとってこの上なく名誉な経験でした。


 正直に告白しますと、子どもの頃に確かに『鉄腕アトム』も読んでいましたが、どちらかというと横山光輝先生の『鉄人28号』の方に夢中だった私です。手塚先生が偉大なまんが家であることは、私が編集者のスタートを切った頃にはすでに衆目の一致するところでしたが、コミック誌の編集者になるとは思っていなかった私は、手塚作品の熱心な読者というわけではありませんでした。むしろ、当時押しも押されもしない人気作家でもあった手塚先生は、ベテラン編集者にとってもスケジュール通りに原稿を受け取ることが難しい作家の筆頭だということで、できれば担当したくない作家だったのです。


 ですから、先輩や同僚からも「新入社員で手塚担当か……大変だね」と、同情されたり脅されたりだったのです。しかし、担当させていただいて数か月、私は先生の作品というより、手塚治虫という人物の魅力の虜になっていきました。『きりひと讃歌』の最後の10話と、その次の新連載作品の準備から連載スタート、そして物語が佳境に入るころまでを担当させていただいた間に、私は子どもの頃から抱いていた手塚治虫という人のイメージがガラリと変わる経験をさせてもらいました。

 

 新連載スタート時に担当した作品は『奇子(あやこ)』という、私の知っている手塚作品のどの系譜にも属さない、社会派劇画とでもいうべき、『ビッグコミック』読者層の大人に向けたかなりシリアスな作品になりました。『きりひと讃歌』も、「子どもまんがの神様」とか「日本のディズニー」というような手塚作品のイメージとはかなりかけ離れた作品でしたが、『奇子』は、それ以上に以前の作品とはまるで異なる匂いを持っていました。終戦直後の日本の世相、下山事件を想起させる歴史の暗部にも鋭く迫りながら、かなり性的な表現もあれば殺人もあるという「文部省推薦」とはほど遠い異色の作品です。子ども向けの、あるいは万人向けの手塚作品しか知らない人は、ぜひ『きりひと讃歌』や『奇子』を読んでみてください。あなたの手塚作品に対するイメージが崩壊すること請け合いです。

Photo

 手塚治虫という作家の偉大さはそこにあります。とにかく守備範囲が広いというか、まんが・コミックという表現手段で可能な世界の、全てを描き尽くしたいという桁外れの貪欲さを持っていた方でした。また、後輩の若い作家のデビュー作までが気になってしかたないという、大作家らしからぬ嫉妬心の持ち主でもありました。私は、「この人の作品を生み出す原動力は、嫉妬心か?」と思ったりもしました。

 かけだし編集者の私にまで、「岩本さん、◯◯誌でデビューした◯◯さんの作品を読んでますか? どうしてあの◯◯さんはあんなに人気があるのですか! どこが面白いと思いますか」と、真剣な眼差しで私に尋ねられるのです。そして、次々に新しい表現手法を試し、新人作家がユニークな視点で描くジャンルにも挑み続けてそれを凌駕するという姿勢を最後まで貫かれたと思います。トップを走り続けること、それが手塚治虫という作家の使命であるかのように…… そして、1989年、60歳の若さでこの世を去られた手塚先生。 私は、手塚先生の享年を十年も超えて生きています。先生の偉大な業績に比べて、なんと無駄に長生きしていることか……

【余話1】
 実は、私が連載開始を担当させていただいた作品『奇子』は、現在、角川文庫で読むことができることを最近知りました。なぜ、小学館のコミックスのラインナップに入ってなくて、どういう経緯でKADOKAWAの文庫に収録されることになったのかは知りません。しかし、自分が担当させていただいた作品が、50年近く経って、もう一度読むことができるのは嬉しいことです。(電子版は、E-Book Initiative japan

【余話2】

『奇子』は、スタート時に手塚先生と編集長の間で、作品のタイトルを巡ってかなり激しいやりとりがあり、間に入った私はオロオロするばかりでした。とうとう最後は、皇居外周の道路をぐるぐると何周も回るハイヤーの後部座席で、手塚先生とK編集長の直接対決にもつれこみ、前部助手席に乗ってはらはらしながらそのやりとりを聞いていた担当の私……今回、改めて角川文庫版で『奇子』を読みながら、あの時の緊張感がよみがえりました。当時、手塚先生はまだ44歳だったことに、今更ながら驚きを禁じ得ません。どう思い返しても、堂々たる大作家のオーラに溢れていらしたからです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2017年5月26日 (金)

私のFacebook利用ポリシー【Ver.2】

Facebookを使い始めた頃に、自分なりの『Facebook使用ポリシー』を策定して、SNSの利点と欠点をおぎなってきたつもりです。しかし、その使用ポリシーも、時代にそぐわない点や私自身の思いが至らなかった部分などもあり、5年ぶりに補足訂正することにいたしました。原則は変えておりません。

 

 長い間雑誌というメディアで仕事をしてきた私は、Facebookというメディアにリアルな人間関係を求めてしまいます。(所詮はネットメディア、そんな絵空事は無理という意見も承知の上です)不特定多数の方とのコミュニケーションは、雑誌の世界でさんざん経験してきました。それでも、現役時代には読者からいただいたお便りには、毎日最低20通の返事を書き続けることをノルマとして自分に課してきました。できるだけリアルなコミュニケーションを実現しようと努めてきたつもりです。そういう人生を歩んできたので、恐らく多くのFacebookユーザーとは異なる感覚と期待をもっているのかもしれません。そこで、自分なりに以下のようなポリシーを策定しております。

◎自らのプロフィールは必要にして充分な内容を公開とし、立場と経歴を明らかにした上で、投稿は基本的に「公開」設定にしております。ただし、一部誤解を受けやすい投稿に関しては閲覧制限を設けています。Facebookは本来、本名で参加し、お互いに相手のことをよく知っていることが前提のはずです。匿名でプロフィールも公開しないのであれば、Facebookを利用する意味がないとさえ思っています。

 限られたスペースのコメントの中で、誤解や曲解のリスクを可能な限り減らすためには、相互に相手がどのような方であるかを知っておくことが大切だと思っています。お互いの立場や、背景、性格なども知っていれば、「いいね!」ボタンの押し方も、お互いに理解できます。

 私の投稿には、どなたでもコメントがつけられる設定にしておりますが、誹謗中傷の類や他の方が読んで不快に思われそうなコメントは勝手ながら削除させていただいています。投稿に無関係の、私への個人的なメッセージも、タイムラインからは削除させていただき、メッセージでのやりとりに移行させていただいています。

◎タイムラインの投稿内容について

 私の投稿の多くは、自らの行動、経験の備忘録的な内容です。自分史的な、過去の思い出の投稿も少なくありません。そんな独りよがりの投稿が多いので、お恥ずかしい限りですが、世相や社会状況に対して率直な感想や意見を述べさせていただく場合もあり、私がどのような人間で、どのような立場で発言しているかを明らかにしているつもりです。

 私自身の投稿には自分で責任をとる覚悟ですが、いただいたコメントの内容にまでは責任を持てません。前述したように、明らかに私の投稿の意図と異なる、他の人を不快な気分にさせてしまいそうなコメントは削除させていただいています。気分良く使えるメディアでなくては、私にとって意味がありません。Facebookは、投稿の公開範囲を投稿毎に細かく設定できる利点があります。上手に利用したいものですね。

◎「友達リクエスト」について

 ありがたいことに、多くの方からいただくのですが、今までリアルなお付き合いのあった方には、基本的に「承認」ボタンを押させていただきます。今後お会いする機会ががあると思われる方も同様です。また、仕事上のお付き合いだけという方も、「友だち」とさせていただくのは失礼にあたると思っておりますので、「承認」を躊躇する場合があります。

➡「リクエスト」をくださる方が、私のことを良くご存じでも、残念ながら私がその方のことをよく知らないという場合も多々あります。その場合は、その方のプロフィールを拝見するようにしています。ところが、困ったことにメッセージもメール来ず、単に「リクエスト」だけを下さる方に限って、プロフィールを拝見しても私との関係が不明なことが多いのです。その場合は、失礼ではありますが、「リクエスト」にお応えしておりません。顔写真を含めたプロフィールをある程度公開されていないと、私のアドレス帳にお名前はあっても、同姓同名の他人ということがあり得るのです。そういう場合、ひとこと、メールやメッセージで「いついつ、どこで会った◯◯です。リクエストを送ったぞ」あるいは「◯◯といった理由でリクエストを送ります」とご連絡いただければ、安心できます。

 実は、知人であるように「なりすまし」て、スパム・メッセージを拡散するという例が後を絶ちません。

Facebookの「友だち承認依頼ボタン」の機能だけに頼らず、「よかったら、Facebook友だちになりませんか」程度のメッセージのやりとりはしたいものですね。第一、ボタンひとつで友だちができたりできなかったりというのは、自分にはどうしても馴染めないのです。友だちというからには、もう少し大切な関係でいたいと思うのです。それを面倒だと思うような関係ではもったいないと思っています。


➡また、リクエストを下さる方は、果たして私のプロフィールに目を通してくださったのだろうか?と疑問に思うことがあります。私自身は、自分が友だちになりたいと思う方のプロフィールはとても気になります。必ず読むようにしています。友だちなのに、相手の性別や居住地や年代層も知らないままで平気というのは、私には信じられません。お互いにその程度の情報は共有してこその「友だち」だと思います。

➡同様に私の方から「リクエスト」を差し上げる場合は、必ず別途メッセージをお送りするようにしています。メッセージのない私からのリクエストはスパムと判断していただいて結構です。

➡私はFacebook相互コミュニケーションのツールだと思っておりますので、ご自身のウォールに書き込みがなく、お互いのコメントに反応もなく、一方的に私のウォールを読んでいるだけ……というような方との「友だち」リンクは、残念ですが外させていただいております。Facebookはブログとは異なる使い方をすべきでしょう。

➡繰り返しになりますが、リクエストには必ずメッセージをください

 このようなポリシーでFacebookを使っている私は、ひょっとすると何人かの方に無礼な対応をしているかも知れません。しかし、時間や機会があれば、お目にかかって会話を楽しんだり、食べたり飲んだりすることもしてみたいと私自身が思うような方と、上辺だけでないお付き合いをしたい、少なくともそのような気持ちを持ち続けたい。

  仕事に結びつけることは、ほとんど考えておりません。結果として仕事でご一緒できるなら、それもまた嬉しいというくらいの気持ちです。

 かつて、私にリクエストを下さった方に、メッセージで「プロフィールを公開されていないようですが、せめて私にはプロフィールを教えていただけませんか?」と返事を書いたところ、「プロフィールを教えろと言われたのは初めてです。自分の身の安全のためにお教えすることはできません」と憤慨されたことがあります。私は、その方がなぜFacebookを利用されているのか理解できませんでした。もちろん、リクエストはお断りしました。

 ですから、私にとってのFacebookは楽しみながら使って、前向きな気持ちを維持できるメディア。そして「友だちを作るためのメディアというより、友だち関係を維持するためのメディア」です。ともすれば希薄、疎遠になりがちな人間関係の密度を回復してくれるツールです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2017年3月28日 (火)

「平成の伊能忠敬」同行記

鈴木康吉さんと歩いた28km
 かつて測量のため伊能忠敬の歩いた日本の沿岸を、リヤカーを押して歩いている人がいる……と、伊能忠敬研究会の先輩から教えられて知ったのは、昨年の秋のことでした。その「平成の伊能忠敬」さんは、第二次行脚の帰路で、私の住む伊勢亀山市の公園で野宿をして、私がそのことを知った前日にはすでに四日市まで到達していたため、昨年はその姿を拝見するチャンスを逃してしまいました。その直後、Facebookに旅の記録を時々投稿されていることを知り、メッセージを送らせていただきました。
 今月になって、「平成の伊能忠敬」と呼ばれる愛知県大府市在住の鈴木康吉さん(74歳)は、私をFacebookの友人として認めて下さり、鈴木さんの投稿で、第三次の旅に出ることを知ったのはほんの数日前のことでした。
 3月25日にご自宅のある大府市を出発し、26日に四日市入り。27日に四日市を出発して亀山を通過する予定だと知り、「それなら、27日の朝、四日市の宿泊先のホテルまで参ります。お邪魔でなければ一緒に歩かせてください」とお願いしたのは2日前のことでした。26日夕、鈴木さんから私のiPhoneに連絡が入り、「雨の中、真面目に歩いたので午後3時にはホテルに着いちゃったよ」とのこと。
 27日早朝、私は亀山駅から電車で四日市の鈴木さんの宿泊先のホテルへ向かいました。7時半ごろにホテルでというお約束だったのですが、6時半ごろにJR四日市駅に着いたので、お目に掛かる前に、同行ウォーキングの足慣らしに、1時間、約6km四日市市街を歩き回ってホテルに到着したのが午前7時半。
 ロビーで待っていると、ほどなく、すでに駐車場に置いたリヤカーの点検を済ませた鈴木さんが登場。Facebookでお互いの顔を知っておりましたが、もし気むずかしい方だったら……とちょっと緊張しておりましたが、その心配は全くの杞憂でした。いきなり旧知の友人のごとく接して下さり、私も生来の図々しさですぐに打ち解けることができました。
 簡単な本日の予定をお聞きしたあと、「もしよろしければ、亀山まで同行させてください。その場合は、旧東海道をご案内しながら行くのはいかがでしょう」との提案に、鈴木さんは「それがいいねぇ」と同意してくださり、基本的に旧東海道を亀山まで歩くことになりました。私が部分的には何度も歩いている旧東海道ルートを繋げればいいので、私の頭の中には旧東海道の地図がインプットされています。
 鈴木さんが下調べをしていた関宿(亀山市)までの最短ルートをタブレット端末で見せてもらいましたが、ほぼ国道1号線を歩くルートで、約25km。それに比べると、旧東海道を歩くと5km以上余計に歩くことになります。特に四日市市内の旧東海道がどの道なのかをご存じなかった鈴木さんを案内して、ホテルを出発したのは午前7時50分ごろでした。

20170327074932

↑ホテル出発直後。

20170327084257

↑四日市市日永付近の旧東海道。

 一緒に歩きながら、鈴木さんと私はほとんど途切れなく話続けます。底抜けに明るい鈴木さんは、しゃべり続けても歩調を乱すことなく、予想以上に速いペースでリアカーを押していきます。私は、並んで歩いたり、時として道路の反対側に渡ったり、駆け足で前に回ったり立ち止まって先を行く鈴木さんの後ろ姿を撮ったりしながら、順調に距離を稼いでいきます。四日市市街地を抜けて、旧東海道と伊勢街道の分岐点、追分から小古曽を抜けて行く旧東海道は、鈴木さんに取っても私にとっても初めて歩く道。内部橋を渡り、采女で鈴木さんが買い物をするためにマックスバリュに立ち寄るまでは、休みなしで8kmを順調に1時間15分くらい。

Img_5277

↑鈴木さんの相棒のリヤカーには「歩いて日本の沿岸一周り」とのプレート。これを読んで声をかけてくる人が、この日も数人。リヤカーの荷台天板には日本地図が描かれ、野宿の時に使うマットレスと、スマホやタブレット端末の充電用に太陽電池が固定されています。
 

20170327093909

↑お気に入りのマックスバリュで、この日の食料や弁当の買い物。
 買い物を済ませた後、采女の里は、1号線が約2㎞かけて緩やかな上りとなっているのに比べ、旧東海道は、杖衝坂(つえつきざか)の急坂を上ります。今回の同行ウォーキング中、ルート案内を私が受け持つ以外は、鈴木さんの旅スタイルを尊重し、私は傍観者に徹することに努めましたが、さすがにこの急坂では、最後の100mほどは、鈴木さんが曳くリヤカーの後を押して上がります。結果として、杖衝坂がこの日最大の難所となりました。写真ではわかりにくいのですが、ただ歩いて登るだけでもけっこう大変な坂です。天気がよくて幸いでした。雨でも降っていたら、鈴木さんひとりではかなり手こずったと思われます。

20170327100354

↑ここが、この日最難関だった杖衝坂。このカットを撮ったあと、私もリヤカーの後ろを押してやっとのことで坂上まで……。通常は押して行くリヤカーですが、急な上り坂ではこのように曳いていきます。

 四日市の外れ、采女の里を抜けて鈴鹿市に入るころから、追い風だった風が、かなり強い向かい風に変わりましたが、鈴木さんのペースは落ちません。私も負けていられないと、相変わらずおしゃべりしながら歩きます。

20170327111711

↑石薬師一里塚

20170327112326

↑堤防下で風を避けながら、ちょっと早い昼食中。
 鈴木さんは、三重県伊勢市の出身。少年の頃に図書館で読んだ伊能忠敬の伝記に感動し、長い間、伊能忠敬の歩いた道を旅する夢を温めていたそうです。昭和42年に愛知県に移り、以後大府市で大工の仕事をされてきました。私が大学進学で名古屋住み始めたのが昭和41年ですから、青春の第二の人生スタートは同じ時期だったことを知りました。
 道すがら、鈴木さんの若き時代の苦労の日々の話や、もちろん伊能忠敬先生や伊勢松阪が生んだ稀代の探検家にして清廉潔白な偉人・松浦武四郎さんの話題、そして鈴木さん自身の日本の沿岸を一周するリヤカー旅の、第一次(2015年)、第二次(2016年)の旅の話など、話しても話しても尽きない話題が続きました。
 鈴木さんが、少年の頃からの夢を実現すべく、リヤカーで第一次の旅に出発したのは、72歳の春。愛知県大府市の自宅から、太平洋岸の海岸線を辿り東北地方を北上、北海道に渡って反時計回りに一周。帰路は、青森から日本海側を福井まで歩き、関ヶ原経由で名古屋熱田神宮まで戻ったのは、ちょうど7か月後の10月でした。北海道は歩きやすく、一日に40kmくらい行けたとか。北海道以外は、大体一日に20〜30kmのペースで歩を進めるとのこと。
 昨年の第二次の旅では、愛知県大府市から北陸へ抜け、山陰の日本海側を山口まで。九州に渡り、反時計回りに九州を一周。帰路は瀬戸内海沿岸、大阪、滋賀を経由し亀山を通って四日市まで、約6か月の旅。ビジネスホテル泊まりと野宿は、ほぼ半々というのが、鈴木さんの旅スタイル。全国どこにでもあるマックスバリュが、朝7時から開いているので、そこで食料等の買い物をするのが常らしい。
 鈴木さんにとって、今回が第三次で最後の一周旅になります。前回歩き残した、大府市から名古屋を抜けて四日市まで歩いて来たところで、私が飛び入り同行をさせてもらったという訳です。
 鈴鹿市に入り、しばらくは国道1号線と旧東海道と重なる部分もあり、多くは交差しながら蛇行している旧東海道を通っていきます。石薬師宿庄野宿の中間、石薬師の一里塚付近で、11時半、鈴木さんはちょっと早い昼食を済ませます。旅の間、鈴木さんは一日に5食という日々が続きますが、歩いているせいでスリムな体型に変化はないそう。
 風の当たらぬ鈴鹿川の堤防下で小休止の後、庄野宿を順調に抜け、亀山市に入る手前、関西線の駅と旧東海道が重なる井田川駅で、もう一度小休止。休んでいる間も、私たちはほとんどしゃべりっぱなし。

20170327115657

↑庄野宿に入る手前まで、しばらく国道1号線沿いと旧東海道が重なっている部分があり、大型トラックがすぐ脇を走って行く。この日は、旧東海道の、今は静かな道を歩くことが多くて、鈴木さんには喜んでいただけました。
 井田川から、河岸段丘の上に開けた旧東海道亀山宿までは、緩やかな上り勾配が続きますが、鈴木さんの足取りは変わりません。井田川駅で休んだあと、「ああ、これで足の疲れた取れた」とボソッとおっしゃった鈴木さんの言葉に、私は正直、ホッとしました。「鈴木さんも少しは疲れるんだな」と安心したのです。

20170327120935

↑庄野宿資料館前には、広重のあの有名な庄野宿の浮世絵が……

20170327124923_2

↑庄野宿から亀山宿に至る途中、旧東海道が安楽川で遮られ、この部分は少し迂回して新しい橋を渡ります。背後に、前日の寒波で再度冠雪した御在所岳が見えます。

20170327135238_2

↑関西本線・井田川駅前の鈴木さん(左)と私。

20170327142312_2

↑亀山宿に至る緩やかな勾配を登る。

20170327142512_2

↑鈴木さんのリヤカー押しは、通常はこのスタイル。後方左手に見えるのは、亀山宿江戸方向の一里塚跡。

20170327144449_2

↑各戸に昔の屋号のプレートがかかる、亀山宿手前の旧東海道。

20170327150116_2

↑亀山城址の脇の下り坂を行く。

20170327151056_2

↑私と別れて、この日の宿泊地、関宿方面へ向かう鈴木さんの後ろ姿。また夏の終わりに会いましょう……と約束して別れる

20170327180616

↑鈴木さんが自ら彫り上げたカエルの置物。旅の途上で協力者の方にさしあげる木彫りのカエルを私にもくださいました。恐縮です。
 午後3時10分、亀山城の下で、「今夜は関宿泊まり」という鈴木さんの前途無事を祈りつつ、今日一日一緒に歩かせていただいたお礼を伝えて、ホテルを探しながら関宿方面へ国道1号線を西に向かう鈴木さんの後ろ姿を見送りました。
 この後、鈴木さんは伊賀、奈良を抜けて和歌山から徳島に渡り、四国を一周した後、再び和歌山へ戻って、帰路は紀伊半島の太平洋岸をぐるりと半周して伊勢から尾張へと戻る予定です。夏の終わりに、伊勢を通過する時に、また一緒に歩きたいと再会を約束してあります。
 午後6時過ぎ、鈴木さんから自宅に戻っていた私に電話がありました。「今夜は、ホテルが取れなかったので関宿の道の駅の隅で野宿します」との連絡。「あんたのお蔭で道に迷わず、旧道を歩けた。今日はとっても楽しかった」とも言ってくださいました。私にとっても忘れられない一日になりました。初対面の方と、こんなに楽しく一緒に歩けるなんて思いませんでした。旧東海道の案内役ができたことで、今後の私の旧東海道ウォーキングにちょっと自信もつきました。
 関宿まで行った鈴木さんの、この日の総歩行距離は31.5kmだったようですが、四日市のホテルから、亀山宿で鈴木さんと別れるまでの私のウォーキング・データは次の通りです。写真撮影のために道路をジグザグに走ったりしたので、鈴木さんのデータに比べて少し多めの数値になっていますね。実際には、7時49分より前に足慣らしで6㎞ほど余分に歩いているんですけどね。だから、この日一日で私が歩いたのは、約34kmということになります。

Img_5291

ルート: 旧東海道【四日市宿〜亀山宿】
アクティビティー: ウォーキング
スタート: 2017/03/27 7:49:31
移動時間: 5:29:02
停止時間: 2:04:11
距離: 28.17 km
平均ペース: 5:12/km
最高ペース:  7:43/km
カロリー消費: 1616

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2017年1月24日 (火)

食べ物についての随筆      今一番気になる森下典子

 食べ物について書くことは、ほんとうに難しいとつくづく思います。長い間雑誌の編集に携わり、食べ物の企画にも数限りなく携わってきました。自分で食べ物について、Facebookなどにも書くことはありますが、ほんとうに難しいものです。食べ物についての随筆の上手な書き手こそ、ほんとうの名文家と呼べるのではないかと、常々思ってきました。

 難しいテーマを難しく書くことの容易さに比べると、食べ物のテーマは書き手の文章力やセンスがむき出しになる怖さがあります。しかも、多くの場合、書き手と同じものを読み手が知っていたり、食べたことがある場合が多く、共感を得ることと同じくらい違和感を感じさせてしまうものです。

 

 他の分野の随筆も同じでしょうが、書き手が普遍的だと思っていることが、往々にして独りよがりの思い込みだったり間違いだったりすることが、食べ物の場合は特に多いように思われます。そして、一歩間違えるとかなり下卑た品のない随筆になる危険性をはらんんでいます。世に言う高級な料亭の高価な料理について書けば上品で、商店街の安価な惣菜やインスタント食品について書けば下品かというと、全く違いますね。どちらかというと、その逆になることの方が多いかもしれません。

 我が家の本棚の随筆コーナーは、飲食に関するものと旅に関するものが圧倒的に多いのは、自身が食いしん坊であることと同時に、編集者として書き手をプロデュースするときに、その人の書いた飲食に関する文章を真っ先に参考にさせていただいてきたという理由が大きいのです。文章力を計るバロメーターとして、食べ物の随筆は最適だと思っています。

 若い時分から、名文家と呼ばれる人の書いた物も含め、食べ物に関する随筆を人一倍多く読んできたつもりです。書き手は作家であったり、料理人であったり、俳優だったり。近年、私が大好きで、そのほとんどの著作を手に取っている書き手の中に、二人の卓越した感性の持ち主がいます。東海林さだおさんと、森下典子さんの二人。タイプの異なる二人ですが、編集者として食べ物の随筆を本にしたいと思うときには、おそらくまっ先に名前が浮かぶのがこの二人です。

Img_4126

 東海林さだおさんは、今更私が触れるまでもなく、膨大な食にまつわる随筆が書籍として流布しているので、ここでは、「食べ物の随筆で笑いたければ、東海林さだおを読むに限る」とだけ言っておきましょう。さて、注目すべきは森下典子さんです。ご存じの方も多いと思いますが、彼女は、大学時代から『週刊朝日』の人気連載「デキゴトロジー』のルポライターとして活躍した人で、当時「典奴」の名前で書かれた彼女の文章が面白くて『週刊朝日』を買い続けていたことを思い出します。雑誌を編集する時のヒントや、エンタテインメントとしてのルポの書き方を随分学ばせていただきました。

Img_4129

 後に、私は森下典子さんのベストセラー『日日是好日』(飛鳥新社・刊)で、遅まきながら生まれて初めてお茶(茶道)への興味をかき立てられました。最近読んだものの中では、『いとしい たべもの』(文春文庫)が印象に残っています。この食べ物に関する随筆集は、食品加工機械メーカー、カジワラのホームページで連載が続いている随筆をベースにして、新たに書き下ろされたものを加えて編集されたものです。私は、読み進めながら、カジワラのホームページに書かれた森下典子さんのエッセイに注目し、本にまとめるという仕事をした編集者に嫉妬を覚えました。

『いとしい たべもの』では、名店の有名な菓子も登場しますが、多くは著者の子どものころに食べた母親の料理だったり、七歳の著者自身が作ったサンドイッチ、学生時代に出会ったインスタント麺や、多くの家庭の食卓に見られるソースやカレーのルウなどについて、独自の視点と思い入れに郷愁という調味料を加えて書かれています。

 カレーパンの空洞や、崎陽軒のシウマイ弁当の食べ方に、ここまでこだわった書き手がいたでしょうか? 笑いながらも、しみじみと共感を覚える文章は、森下典子さんの持ち味です。『日日是好日』で泣かされた私は、『いとしい たべもの』で、今は亡き父母や弟を思い出さされて、また泣かされました。文章もさることながら、この本では、著者自身が食べ物のイラストを描いています。そのイラストが素晴らしい。魅力溢れる一冊ですが、その魅力の半分はイラストではないだろうかと思うくらいでした。森下典子、恐るべし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月22日 (日)

俄然興味が湧いてきた      松浦武四郎という偉人

 過日、津市の石水博物館に『江戸時代を歩こう~古絵図・錦絵・名所図会を携えて~』という特別展を観にいった折り、同博物館主催で『炎の旅人 松浦武四郎』という記念講演会が開催されることを知りました。早速その場で聴講を申し込み、1月22日(日)に、講演会の会場である三重県立美術館へ行ってきました。

20170122222944

 松浦武四郎という人物については、「北海道という地名の名付け親。江戸から明治期にかけて、蝦夷地を探険した人」というくらいのわずかな知識しかなかったのですが、伊勢亀山に移住してから、松浦武四郎が伊勢松阪出身であることを知りました。

 幕末の蝦夷地探険というと、私の尊敬する伊能忠敬や間宮林蔵という人が思い浮かびます。伊能忠敬を心の師と仰ぐ私にとって、石水博物館の『江戸時代を歩こう~古絵図・錦絵・名所図会を携えて~』は、見逃すことができない特別展でした。それを機会に、松浦武四郎という人物についてもっと知りたくなったのは、何か運命的なものを感じます。

 伊能忠敬先生が亡くなって来年(2018年)で200年になります。私は、今、伊能忠敬研究会の末席を汚す会員ですが、来年研究会では没後200年を記念してのイベントを開催する予定で、私もそのお手伝いをしています。松浦武四郎は、伊能忠敬先生が亡くなった年、1818年(文政元年)に現在の三重県松阪市に生まれています。この偶然を、私はとても偶然として片付けることができません。

 来年、2018年は、伊能忠敬没後200年、そして、松浦武四郎生誕200年の年になります。改めて二人の偉大なる先人について学ぶ絶好の機会です。今、期せずして伊勢亀山の住人になった伊能忠敬ファンの私にとって、松浦武四郎という人物に出会うのは必然だったような気がしてきました。

Img_4218

Img_4219

 今回の『炎の旅人 松浦武四郎』と題する講演会(講師は、松阪の松浦武四郎記念館・主任学芸員の山本命氏)を聴いて、ますます、この伊勢が生んだ探検家にして旅人、登山家であり、ルポライターであり出版人でもある松浦武四郎に興味がかき立てられました。偉大な業績を残している人物なのに、伊能忠敬や間宮林蔵のように一般にはほとんど知られておらず、教科書に登場することもなかったはなぜなのか……講師の山本氏の言葉を借りれば、「反骨の人であったということ。松前藩や幕府、そして明治政府に対しても、その蝦夷政策を批判したことと無縁ではない」ということのようです。

 アイヌ民族との交流、アイヌ民族の文化保護や地位向上に尽くしたヒューマニスト・松浦武四郎は、もっともっと知られるべき偉人だと思います。特に、北方領土問題や、大国が自国第一の保護主義に走る気配が濃厚な世界情勢を見るとき、民族や地域差の壁を超えて、協調の理念を貫いた人物、松浦武四郎の姿勢に学ぶことは山ほどあるように感じます。

 しばらく、伊能忠敬先生同様、松浦武四郎先生のことを研究してみたくなりました。


↓松阪では、松浦武四郎記念館を中心に、毎年2月最終日曜日に『武四郎まつり』を開催しています。

20170122222543


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年11月27日 (日)

『木の上の軍隊』、感動の最終日公演

 感動の舞台の幕が下りました。
 こまつ座の公演『木の上の軍隊』(井上ひさし・原案、蓬莱竜太・作、栗山民也・演出、出演=山西惇、松下洸平、普天間かおり/有働皆美Viola)は、故・井上ひさし氏の未完の作品を蓬莱竜太が、井上ひさしの遺志を引き継いで完成させた戯曲で、3年前に初演されています。今回の公演とは異なる配役(山西惇は初演時にも出演)での初演を観ていないので、比べることはできませんが、旧知の友人でもあるシンガーソングライターの普天間かおりさんが初舞台に挑戦するということで、とても楽しみにしていた公演です。
 
 早く観たい気持ちを抑えて、敢えて最終日を選んでチケットを買ったのは、初めて演劇の舞台で重要な役を演じる普天間かおり(以下敬称略)の努力が結実する場に居合わせたいと思ったからでした。
 彼女はその期待に見事に応えてくれました。山西惇、松下洸平という優れた役者の演技はもちろん、要所要所で効果的なBGMを舞台袖で奏でるヴィオラの有働皆美も素晴らしかったのですが、普天間かおりは、彼女のために書き下ろされたのではないかと思えるほどのハマり役ぶりを発揮してくれました。

161110_4

>「実話から生まれたいのちの寓話が今、
  語りかける。
  ある南の島。
  ガジュマルの木に逃げ込んだ兵士二人は、
  敗戦に気づかず、二年間も孤独な戦争を
  続けた――
  
  人間のあらゆる心情を巧みに演じ分け、観
  る者の心に深く刻みつける山西惇が、再び
  本土出身の"上官"を演じる。
  注目の新キャスト・松下洸平は、柔らかく、
  おおらかな存在感で島出身の"新兵"に挑
  む。
  歌手・普天間かおりをガジュマルに棲みつ
  く精霊"語る女"に抜擢。琉歌に乗せて島の
  風を吹き込む……こまつ座のHP より)

Origin_1

↑こまつ座HPより

 この芝居は過去の悲惨な戦争とその後の2年間を描きながら、今の沖縄が置かれている状況に思いを馳せざるを得ない物語です。私たちが属している国家の醜い姿も透けて見えます。本土が沖縄に押しつけてきて、省みられることの少なかった不幸で一方的な関係について、改めて考えさせられた2時間でした。
 沖縄を故郷に持つ普天間かおりにとっては、他人事でない物語だったと思います。人柄に惚れて彼女の歌を聴き続けてきましたが、舞台女優としての側面を引き出してくれたこまつ座の英断に拍手です。この舞台での経験は、普天間かおりをまたひと回り大きくしてくれることと思います。
 初舞台へかける彼女の想いと並々ならぬ努力で、無事に楽日を迎えた安堵感もあったのでしょうが、終盤の台詞を語る彼女の目には溢れたものは、沖縄で生まれ育ったという彼女ならではの感情の発露でもあったはず。それを観ている私にも熱いモノがこみ上げてきました。
 この芝居が、全ての日本人に問いかけてくるものは重く大きい。きな臭い政治状況に投げかけられた、沖縄の心の叫びでもあると受けとめました。再演の機会があるなら、また普天間かおりで観てみたい。と同時に、ぜひもっと多くの人に観て欲しい芝居です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年11月14日 (月)

知らなかったメキシコの巨匠   マヌエル・アルバレス・ブラボ

 大変お恥ずかしい話ですが、大学時代にスペイン語を専攻し、今も細々とスペイン語の勉強を続けている私です。スペインや中南米の文化、芸術には普通の日本人よりは多少興味もあり知識もあると自負してきました。しかし、一昨日までメキシコの20世紀を代表する写真家アルバレス・ブラボについては、全く何も知らなかったことを、今、とても恥じています。
 名古屋市美術館で開かれている『アルバレス・ブラボ写真展〜メキシコ、静かなる光と時』を観てきました。

01

↑名古屋市美術館エントランス

 アルバレス・ブラボ(Manuel Álvarez Bravo 1902〜2002)は、若き日にメキシコ革命の渦中にいたことも含めて、まさに20世紀の100年を生き、数多くの傑作を残した偉大な写真家であることを、今更ながら知ることができました。
 今回展示されていた200点近い作品(当然のことながら全てモノクローム)の中には、強く惹かれる作品や印象的な作品が数多くありましたが、私はその作品のひとつひとつよりも、アルバレス・ブラボの視点の多様性と独自性に感銘を受けました。全くの素人写真で写真を撮ることが好きな私には、不遜な言い方ですが、とても共感できる視点を感じました。彼のように撮れないのは重々承知でいうと、そこにいたら私も同じ視点で写真を撮ろうとしたのではないかと思ったりしました。「こんな写真が撮りたい」という気持ちは、私だけでなく写真好きの人ならだれでも思うものですが、そのイメージを印画紙に定着させるまでの感性と技術という点で、アルバレス・ブラボは類い希な才能を持っていたのだと思います。
 写されたものの中には、極めて非日常的なものもありますが、ほとんどは誰でもがそこに行けば見られるような日常的な光景を、独自の視点で切り取った作品にアルバレス・ブラボの真髄があるように感じられました。

02

03

↑同展のパンフレットより

 しかし、今までこの写真家のことを何ひとつ知らなかったこと、ほんとうに恥ずかしい。メキシコ革命下で起こった壁画運動の、リベラ、シケイロス、オロスコ……といった画家やその作品については多少知っていたのに……それでも、今アルバレス・ブラボの作品に接することができたことは幸せでした。
 マヌエル・アルバレス・ブラボについては下記のホームページに詳しい解説があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年8月 1日 (月)

25年以上続く愛読者交流会

 インターネット全盛の現在では、もはや死語に近い「パソコン通信」。私がそのパソコン通信で初めてNIFTY-Serveに接続したのは、同サービス開始の翌年、1988年4月17日のことでした。同時期に日経MIXというサービスにも加入しました。当初はワープロ専用機の東芝ルポで接続したのでした。その後 、 当時使用していたMacintoshSEでも接続することができましたが、あの頃の通信設定にはほんとうに苦労させられのを思い出します。

 当時、私はアウトドア・ライフ誌BE-PALの編集長という立場でしたが、編集後記に「私のNIFTY-ServeIDPBB◯◯◯◯◯です。このID宛てにメッセージをいただければ必ずご返事を差し上げます」と書いたことがあります。今ではとても考えられない暴挙ですね。NIFTY-Serveの会員も、『BE-PAL』の発行部数と同じ10万~20万人規模だった頃の話ですが、インターネットのメールアドレスを雑誌に載せて「必ず返事を差し上げます」などと約束したら……と思うとゾッとします。

 実はそれ以前、1986年に、在籍していた『BE-PAL』編集部で、初めて編集長を拝命した時から、ちょっとした訳があって、編集部宛に届く読者の方からのお便りやアンケートのハガキに、1日最低20通は返事を書くということを自らにノルマとして課しており、毎日20通、週に100通のハガキを書き続けておりました。その日課は、その後『サライ』『ラピタ』などの編集長を務めていた現役時代の最後まで続きました。年間に約5千通のハガキを約20年間書き続けたことになります。

 読者の方と誌面外でも、できるだけコミュニケーションをとることをモットーとしていた私は、パソコン通信の出現は大いに歓迎すべき出来事でした。なので、気軽に「メールを下さった方には必ず返事を書く」などと書いてしまったのです。

 今では想像もできないでしょうが、インターネットと異なり、限定された会員同士のメールのやりとりしかできなかった初期のパソコン通信でしたから、ひと月に届いたメールは20通に満たなかったと記憶しています。そのうち、メールのやりとりをする読者の方が次第に増えていき、常連の読者の方に対して『ドン・キホーテ通信』という名の同報メール(今ならさしずめメール・マガジンといったところでしょうか)を配信するようになりました。

 ただ、通信費も端末機器も私個人の負担で行う、非公式の愛読者とのメールのやりとりでしたから、必ずしも定期的というわけではありませんでした。その私が配信する同報メールの会員が50名に達した頃、私と愛読者との放射線状の繋がりだけでなく、私からの同報メールを受け取っている読者の方同士が繋がることはできないだろうかと考えるようになりました。インターネットのSNSなら、いともたやすいことですが、フォーラムを開設するほどの規模でもなかった私と読者の方との繋がりでしたから、まずはオフラインで皆さんのお目にか掛かることから始めようと考えました。その頃、通信を通じて知り合って、すでに家族ぐるみでのお付き合いが始まっていた読者のお一人Oさんと相談し、私と愛読者の皆さんとの初めてのオフライン・ミーティングを実施したのが、1990年の8月25日のことでした。

↓下の写真は、その初めてのオフライン・ミーティングに参加した皆さんとの、六本木のスペイン料理レストラン前での記念写真です。前列左から3人目が私ですが、その右斜め後ろのグリーンのポロシャツの男性が当時『BE-PAL』のフリーランス・スタッフだったKさん。それ以外の方は全て『BE-PAL』の読者の方とその配偶者の皆さんでした。

Dq

 あれから、25年以上の歳月が流れましたが、同報メールからメーリングリスト……現在のFacebookとネット上の交流の手段は変わりましたが、毎年全国どこかの場所で何度かのオフライン・ミーティングを続けながら、私と元読者の皆さんとの交流は今でも続いています。私の編集する雑誌が変わる度に新しいメンバーが増えていきました。もちろん、一時よりも人数は減る一方で、それ以降に新たにメンバーに加わってた読者や仕事仲間の人たちもいて、私がリタイア後も相変わらず年に何度か実際にお目に掛かって飲食を共にしたり、旅をしたりする関係が続いています。

 学校の同窓会でもなく、仕事関係の同期会でもなく、愛読者の皆さんと1編集者とその仕事仲間という集まりが、奇跡的に25年以上続いてきたことは私にとってこの上ない喜びです。素晴らしい読者の方々や仕事仲間と知り合えたこと、そしてそれが4分の1世紀も続いてきたこと、編集者冥利に尽きます。

 今では、読者と編集者や仕事仲間という関係ではなく、性別も年齢も職業もさまざまな貴重な友人同士としてのお付き合いになりました。ありがたいことに、雑誌の編集という仕事をしていたことがきっかけで、私には誇るべき生涯の友人ができたのです。我ながら、ほんとうに幸せ者だと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«私がスペイン語を学んだ訳